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フランサフリック情報ネットワーク

フランス=アフリカ関係/フランコフォニーを考えるためのブログ

   

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治安維持:「世界中に認められたフランス式ノウハウ」

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Billets d'Afrique et d'ailleurs 200号(2011年3月)

先々月の1月11日、ベン=アリー当局へフランス式「ノウハウ」の導入を提案したミシェル・アリヨ=マリーは、フランスの軍事協力が無くてはならないと何度も繰り返した。
 
死者が既に52人にのぼっている時に、ベン=アリー体制の抑圧的な暴力を罵ったミシェル・アリヨ=マリー外務大臣(当時)――元国防大臣――は、議員やテレビ・カメラを前に、犠牲者たちへの心からの同情を熱心に表明した。「世界中に認められた私たちの治安部隊のノウハウが、この種の不安定な状況を解決できることを示せば、私たちが求める政治の正当性が明らかになります」。
 
こうした反応が今後も受け継がれるとすれば、それは何よりも、デモ参加者たちが最終的に、我々の指導者たちに期待されたやり方では全くなく、ひとつのより良い方法によって「不安定な状況を解決する」ことに成功したからだろう。彼女の反応が呼び起こした抗議の声は、チュニジアの革命家たちへの共感と連帯を含んでいるために、当然のことながら明るいものといえる。しかし、それはまた一方で、フランスの「治安」協力への無理解あるいは習慣的な無関心を示してもいる。
 
ミシェル・アリヨ=マリーは、フランスが遥か昔から行ってきたことや、こうした政策に対するフランスの高慢ぶりが、とりわけ国防省や外務省の刊行物の中に数多く存在しているということを以前から何度も繰り返していたのだから、自分の言葉に対する人々の反応に、彼女自身が誰よりも早く気付くべきだった。
 
植民地の遺産の……
 
独立が相次いだ時期、つまりフランスが旧植民地の軍隊の養成を引き受けていた頃、フランスの軍事協力は、一方では伝統的な軍事力や特殊部隊(大統領あるいは「共和国」衛兵隊、諜報・非合法活動機関、自警団、死の部隊など)の養成を目的としながら、他方では、人々を監視するための技術や教義も提供していた。
 
「革命的」または「治安戦」と呼ばれる戦争の理論と実践の直接的な基礎となり、「内なる敵」や「破壊分子」との戦いという問題を中心的課題とするこの養成法は、フランス憲兵隊のシステムと瓜二つの、アフリカの憲兵隊の発展を支えている。それは、警察活動や諜報活動を同時に行い、万一の場合は「軍隊に昇格」する――つまり、軍事手段に訴える――ことができるために、特に強力な存在と見なされている。
 
戦時下のカメルーンでUPC(カメルーン人民同盟)の反徒たちに対して憲兵隊を率いた後、経験豊富なメトリエ中佐は彼らをガボンに配置する責任者となっている。その他のフランサフリック・ネットワークの独裁者たちも彼に従うことになるだろう。
 
治安部隊と……
 
それがアフガニスタンに送られた占領軍であろうと、他国の当局への軍事協力であろうと、フランス憲兵隊の士官たちは、まさにフランス軍の植民地経験があるが故に、自らが提供する活動に、例えばアメリカが提案した軍事協力について、「治安維持のための否定できない新たな価値」(※1)を見ている。
 
これについては、既に明らかになっているいくつかの事柄があり、『ビエ・ダフリック』(訳注:スュルヴィの機関紙)でも言及されたものがある。例えば、1995年に協力省は、「多くの国々における犯罪と社会不安の増大」(※2)の名において、アフリカの警官隊と憲兵隊への支援拡大を正当化していた。
 
2000年にも、憲兵隊は、「治安維持」(※3)のためのアフリカでの軍事協力の「優先的な軸のひとつ」に定められている。さらに、カメルーンにCPTMO(治安維持技術改良センター)と名付けられたENVR(地域密着型の国立学校)(※4)が創設されたのはこの年である。この組織の存在は、少し後に、正確には2008年のカメルーンでの反ビヤ(訳注:大統領)暴動が起こった年に、フランス軍によって正当化された。フランスの軍事協力を扱う雑誌『フレール・ダルム』261号(2008年)には、次のように書かれている。「絶え間なく拡大する都市化とともに、街の通りは徐々に、秩序と無秩序とが対峙する特殊な空間に変化した」。既に知られているように、「無秩序」な兵士たちによって、数十人の死者と無数の逮捕者が出ている。
 
2004年8月、フランスはガボンの独裁者とも協力協定を結んだ。当時の公式声明(※5)によると、協定の軸の一つは、「短期的あるいは中期的に国内で起こり得る全ての治安悪化を予防するために、機動力のある憲兵隊の能力向上を支援する」ことであった。
 
「今日フランスは、当初の目的とは大幅に異なったものを提供している」。『ル・モンド』紙(2月18日付)が最近このように我々に教えてくれたことは、フランスがバーレーンでの反体制運動を鎮圧する部隊を組織していたことである。さらに、「CRS(共和国機動隊)総局とともに4年前から行われている特権的協力は、悪質なデモ参加者だらけの島国で、対暴動部隊を専門化し、群集のコントロールをより良く行うことを可能にした。」と、(この協力に関する)報告書の作成者である、UMP(国民運動連合)のジャン=リュック・レイツァー議員は明言している。彼はまた、「スロヴェニア、アルバニア、イスラエル、あるいはリビアも、厳しく鎮圧される抗議運動に悩まされている」ことを例に挙げ、「フランスは当該国内の治安に関する協力協定を順調に推進している。」とも述べている。
 
その上、2009年3月16日以来、軍事協力政策は、内務省に置かれたSCTIP(警察技術国際協力部)の管轄下にあった、警察との特権的協力制度を公式に吸収した。
 
もっとも、これら2つの領域を併合し、フランス式「ノウハウ」の輸出を正当化する言説は、アフガニスタン戦争へのフランスの参加を正当化する、反テロを唱えるレトリックをその論拠としている。「我々の国から遠く離れた国の治安に直接的に影響を与える脅威が生まれ、増大しているという複雑な国際情勢の中で、国際協力は常により強力なものでなければならない」(『フレール・ダルム』2008年、258号)。情勢は複雑だが、思考は非常に単純なままである。
 
塗り替えられた人権
 
「革命戦争」の理論家や実践家に――とりわけ、「非対称戦争」または「人民戦争」といわれる紛争の際に――従いながらも、当然のことながら、フランスの軍事協力は今後も、自らの養成方針によって推進したい諸原則である、「人権の尊重」、「市民の尊重」、「法治国家の尊重」、「民主化の尊重」を大々的に宣伝することを決して忘れないだろう。
 
フランスの治安維持に取り組む哲学者はこう書いている。「治安を守ることと、個人の自由を尊重することとの間の適切なバランスを見つける必要があった。そして、治安維持の哲学は、デモ参加者とはもはや一時的に取り乱した市民などではない、というより今日的な概念に向かって発展した。それは、“人道的な治安維持”という概念の誕生である」(『フレール・ダルム』2008年、261号)。しかしこれは、現実には、頻繁に「取り乱した」民主主義の原則である。というのも、この場合の秩序というものが、不当で、専制的で、独裁的かつ不法なものとなり、人々の異議申し立てを受けて以降、「個人の自由の尊重」と「治安維持」とのバランスなど明らかに不可能になっているからである。
 
実際のところ、フランスの軍隊にとって重要なのは、ただ単に、その役割は十分に維持しながらも、あまりに暴力的な鎮圧に公然とは参加しないということだけである。つまり、とりわけその「防波堤」の外側で、フランスの軍装品や治安任務を売ることによって――即ち、商業的なロジックも用いて――現体制を支援し、『防波堤』の内側で、影響力があり、その上介入的な政策を続けることである。
 
こうした放蕩ぶりがほとんど目立たないように協力は続けられている。例えば、2009年9月28日にコナクリ(訳注:ギニアの首都)のスタジアムで起こった虐殺事件の後、フランスの軍事協力は(一時的に)停止された。しかし、メディアではほぼ扱われなかった、2008年2月のカメルーンでの鎮圧事件の際はそうならなかった。マダガスカルでも同様である。『フレール・ダルム』(2008年、261号)は、「(2千)ゼロ年代に起こった事件に鑑みると――筆者注:残念ながら2009年にも繰り返されるが――、治安維持および介入という概念の下で問題に取り組む必要性があるかもしれない」と指摘するにとどめていたが、憲兵特別部隊の養成は続けられている。そしてジブチでは、「高度に実戦的な」150名の部隊が、「治安維持および介入」のために「ゲリラ戦術に関するフランス人の専門家、パシェコ幕僚の援軍を受け入れた」(『フレール・ダルム』2008年、253号)。
 
独裁者のための暴力選挙
 
フランスは、「フランス好きの」アフリカの指導者たちに、彼らが再選された「妥当な」選挙結果を公表するようにそそのかすと同時に、さらに、「選挙後の危機」(つまり、選挙におけるいくつかの不正行為に対する暴動)をコントロールするための軍隊の養成という特務を自らに課してきた。だからといって、「国際社会」の無反応を利用するために必要不可欠な、虐殺という手段に訴えることはしなかった。このあたりがまさしく、ミシェル・アリヨ=マリーからベン=アリーへの提案が意味するところである。
 
例えば、2005年にフランスは、チャドのイドリス・デビ政権に、「選挙前後の暴力行為」に対する対暴動特別部隊を組織した(※6)。その少し後、総選挙とそれに続く大統領選挙(軍事協力という用語が、公的開発援助から経費を支出させるために「選挙期間の安定化」という表現に置き換えられた)に向けて、トーゴの憲兵隊の養成と装備を強化してから、「大統領選治安部隊」(FOSEP)の編成任務を負ったフランスは、他のヨーロッパの国々のパートナーと共に「民主化プロセス」に貢献した。6000人の警官隊と憲兵隊からなるFOSEPは、フォール・ニャシンベ・エヤデマの「再選」(訳注:2005年4月24日)の翌日、同年に彼が起こしたクーデターという虐殺手段を繰り返すことはせずに、ジャン=ピエール・ファーブル(訳注:トーゴの反体制派の政治家)の支持者たちを彼に鎮圧させた。
 
この部隊の解散式で、2005年の虐殺事件に関わったアチャ・ティティクピナ大佐(治安・市民保護相)は、トーゴで行われた選挙の安定化は、CEDEAO(西アフリカ諸国経済共同体)の取り組みの一環であることを明らかにした(新華社通信、2010年4月24日)。
 
歴史の皮肉だろうか。1年以上前に『レットル・デュ・コンティナン(大陸通信)』(596号)は、パリとアビジャン(訳注:コートジボワールの都市)との外交関係が再接近していた頃、次のように指摘していた。「フランス軍は仲間のコートジボワール軍に、いくつかの無償の軍事養成を惜しみなく提供している。それは、秩序維持と群集のコントロールを実践するものであり、選挙が近い時期には大変有効で……」。(訳注:2010年、CEDEAOはコートジボワールの大統領選の結果を認めないとして、参加資格を停止した)
 
今日、フランス軍は奇妙なくらいこれらのことを話そうとしない。
 
(ラファエル・グランヴォー)
 
※1フランセッシ大佐「Recamp、PESDおよび憲兵隊という概念」『国防』7号、2005年7月.
※2『ムッシュ通り通信』(協力相発行)63号(1995年5月)より。コミ・M・トゥラボール著、「フランス:トーゴの独裁者の支持者」『ビエ・ダフリック』(122号、2004年2月)において引用されている。
※3 B・カズヌーヴ「軍事協力改革」『元老院報告書』(3394号)、2001年11月20日、p.56.
※4フランスは軍事協力措置の重要な要素となる、約15のENVRを創設した。
※5 V・セーグル「戦闘中のボンゴ」『ビエ・ダフリック』(140号)、2005年10月.
※6 2005年6月12日開催のチャドフォーラムにて。『ビエ・ダフリック』(137号)で取り上げられている。
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チャドからリビアまでの独裁者インターナショナル

Billets d'Afrique et d'ailleurs 200号(2011年3月)

デモ参加者たちを叩きのめすためにカダフィが呼びかけるつもりの「傭兵」について議論するだけでは不十分である。なぜなら、その一部はヨーロッパ大陸の様々な国軍部隊なのだ。たとえ出身国の参謀部からたっぷりと報酬を受け取り、派遣されているとしても、彼ら兵士たちは、多くの独裁者たちによる、リビアの人々の革命を破壊する試みを公然と支援している証拠となっている。
 
インターネット・サイト、lejourguinee.com は2月24日からこう指摘していた。「ギニア、ブルキナファソ、アンゴラ、スーダン、チャド、中央アフリカなどの大統領らは、指導者の“密使”から連絡を受けた。そして、未熟な革命に巻き込まれた指導者からの救援要請に全員が積極的に応じた」。続いて、2月27日には、「リビアの独裁者と袂を分ったために、先週共に辞任した国連大使らは、国連安全保障理事会において、リビアに傭兵を派遣したアフリカの国々に対して抗議しようとしている」と指摘していた。
 
自分たちの仲間のひとりを実際に助けに駆けつけた、アフリカの国家元首たちのリストはまだ完成していないが、tchadenligne.com によれば、チャドの兵士たちの参加が、リビア正義党の党首と、チャド国外でデビ政権に反対する武装勢力のコーディネーターによって確認されている。
 
チャドに配置されたフランスの軍人たちと、フランス軍とデビの参謀部との関係を見ると、フランス軍が少なくとも、このチャド=リビア間の「連帯」に通じていることが容易に想像できる。チャドのフランス軍に対して批判的な数少ないフランスの議員のひとり、ガエタン・ゴルス(訳注:社会党所属)が、2月25日に政府に向けて書いた質問(参照サイト←フランス語)の中で、早急に次のように決断している。「二国間合意によってチャドに駐留し、チャド政権と連携するための重要な情報収集・諜報手段を持っているフランス軍がいることから、私は国防大臣に次の事を指摘したいと思います。あなたは、チャドからリビアに対する軍事活動が起こり得ることを立証する、またはそれを防ぐための情報を持っている、あるいは持つことができるのではないでしょうか? そして、もしそうであれば、最近『フィガロ』紙の記事が言及したように、それらの軍事勢力はチャド大統領の警備隊なのではないでしょうか?」
 
答えは間違いなくウィ(Oui)である。フランス軍は当然これらの勢力を手中に収めている。しかし、彼らがそのことを認めるとは思えない。

カダフィを悼んで

Billets d'Afrique et d'ailleurs 200号(2011年3月)

アンリ・エマニュエリ(※1)は2008年に、開発援助に関する国民議会財政委員会の報告書の中でこう述べている。「開発プロジェクトへの予算が欠乏しているなかで、あなた方の特別報告者は、リビアが優先連帯地域(ZSP)(※2)に属している訳でも、フランス開発庁(AFD)の介入範囲にある訳でもないのに、リビアのベンガジに新しくできる病院の設備へ出資するために、AFDが3000万ユーロを寄付しなければならないだろうと強調しています」。
 
2008年12月4日付の『メディアパール』(※3)では次のように指摘していた。「ベンガジとはまさしく、昨年解放された――パリとトリポリとが再び親密になっているサインである――(ブルガリア人)看護師たち(※4)が勤務していた病院のある場所です。身代金は少なくとも3000万ユーロでした。(おっと失礼! それは“寄付金”です)」。
 
訳注
※1アンリ・エマニュエリ(1945-):社会党の議員。
※2優先連帯地域:フランスが「持続的開発」と「連帯」の名の下で国際協力を行う対象に指定した開発途上国。指定されている55ヶ国のうち、43ヶ国がアフリカの国々。
※3メディアパール(Médiapart):フランスのインターネット新聞。http://www.mediapart.fr/ 2011年2月12日、「ウィキリークス」のパートナーとなった。
※4ベンガジの病院で働いていたブルガリア人看護師5人と医師(パレスチナ人)1人が、子どもたちをエイズ・ウィルスに感染させたとして死刑判決(2004年5月)を受けた事件。2度の死刑判決を経て、2007年、リビアの高等司法評議会は、EUから被害者へ保証金が払われることで終身刑へ減刑。その後、同年7月4日に全員釈放された。その際、フランスとリビアの間で政治的・金銭的な裏取引があったといわれている。看護師らが「感染させた」という証拠は無く――6人が勤務する前から病院内では感染が始まっていたと指摘されている――、冤罪事件とみられる。全員が無実を主張し続ける間、数多くの拷問が行われた。

論説:価値のない外交政策

Billets d'Afrique et d'ailleurs 200号(2011年3月)

チュニジアのベン=アリーとエジプトのムバラクという2人の独裁者を追放した、予期せぬものではあったがそれでも予測可能だった、人々による蜂起は、フランスの政治と、腐敗し専制的と見なされた体制との関係の恥ずべき側面のうちのいくつかを明らかにした。サルコジが言ったように、あらゆる国々とのなくてはならない外交関係が問題なのではなく、我々の政権担当者たちが貧しい国々の相応しくない指導者たちと築いた犯罪的な親交が問題なのである。
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こうして、フィヨン一家がエジプトで過ごした前回のヴァカンス(訳注:2010年末、ムバラクの招きで同国を旅行した)は、価値のないサミットのように歴史に残るだろう。我々の首相が、貧しい人々の汗と拷問された人々の血が染み込んだ贈り物を受け取っていたなら、彼は我々に筆舌に尽くしがたい恥ずかしさを押し付けていることになる。
 
フランソワ・フィヨンの惨めな弁明――今回の特別待遇を断ることは他国の名誉を汚すことであった、というもの――は、滑稽であると同時に軽蔑すべきものである。実際のところ、フランスを、明らかに最も腐敗した政権にとって欠かせない存在にする政治的妥協と、フランスの外交政策とを一つのものにすることで、我々がこれ以上堕落することはまずない。
 
ニコラ・サルコジは彼の大臣たちに、今後はフランスでヴァカンスを過ごすようにすすめたらしい。しかしながら、彼自身も2010年12月末、人権尊重国家の模範とはいえないモロッコで静養していた。我々が「我々の価値観」の名において非難すべきことは、権力との共謀関係を身を挺して築くことである。
 
外交という視点からみると、フランスは衰退しているようだ。難点は、それを嘆く人々が、それに最も一役買っている人々だということである。2月16日付の『カナール・アンシェネ』紙は、ミシェル・アリヨ=マリーの友人であるチュニジアの大金持ちが出資し、共同運営している地中海世界経済予測研究所(Ipemed)などという組織の存在を明らかにしている。元大臣のエリザベト・ギグ(社会党)はその後援団体を主宰し、彼女の夫(訳注:ジャン=ルイ・ギグ、研究者)はIpemedの代表を務めている。ユベール・ヴェドリーヌ(訳注:社会党の政治家)とアラン・ジュペ(訳注:事実上更迭されたアリヨ=マリーの後任として、2月27日から外相を務める)らも、有用というより間違いなく金になる、フランスの外交政策に寄生するこの組織に参加している。この2人は共にフランスの対外政策の責任者であった。ヴェドリーヌは病気のミッテランの傍らで大統領府事務局長を務め、ジュペは彼らが後ろ盾となっていた体制によって犯された、1994年のルワンダでのツチ族に対する大虐殺の際に外務大臣を務めていた。彼らがフランスの外交政策にとって最も好ましい看板ではないことが分かる。
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既に失脚した後の独裁者たちと縁を切り、勝利が確実になってから現場へ駆けつけることは、フランスにとって名誉なことではない。人々の目の前で崩壊してしまわぬよう、フランスが自身の無価値さを自覚することを我々は望んでいる。カメルーンの終身大統領ビヤにおもねるジュペとロカール(訳注:社会党の政治家/名:ミシェル)や、コンゴ共和国の罷免されない大統領サスヌゲソにへつらうトゥーボン(訳注:UMPの政治家/名:ジャック)らは、軍事力によって支えられた政権に忍従する国々における、フランスのイメージを大いに損なわせることに一役買っている。
 
犯罪的権力に媚びることによって、フランスの威信を失墜させることになる政策があり、また、政策の卑劣さと共謀ぶりが忠実に反映される外交人事もある。
 
ジャン=クリストフ・リュファン(元ダカール大使)のように、フランスの外交政策の悪習を暴露した(訳注:2008年12月、彼はセネガルの政治に批判的な発言をした)後で免職になる(訳注:2010年6月)のを待っていたのは――彼がフランサフリックのシステムを何も知らなかったとは思えないが――、政治的に勇敢だったというより、遺恨を持っていたからであるように思える。彼は人にへつらうというこの仕事を断るか、いずれにしても、彼に期待されていたことを彼が自覚した時から、この仕事を辞めていればよかったのではないだろうか。
 
崩壊しかかったベン=アリー政権の安定を主張したために非難を浴びたチュニジア大使のピエール・メナは、我々が知りたかったことをべらべらと喋っていた。彼の後任はもっと上手かった。2月16日に就任したボリス・ボワロンは、自分の横柄な青二才ぶりを晒すのに2日とかからなかった。彼は見苦しいほど謝罪しなければならなくなるくらい、チュニジアの報道陣を叱り付けた(訳注:ベン=アリーとアリヨ=マリーとの関係を質問したジャーナリストに対して)。ロミュアルド・レトンド中佐に続き(参照記事←未訳)、彼はアフリカにおけるフランスの役人の酷くかつ時代遅れな態度という変わらぬイメージを再現している。
 
フランスの外交政策は歴史に刻まれうるのだろうか?
 
(オディール・トブネル)

ジブチ:大統領選前の徹底的な鎮圧

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2011年2月12日(ACP、ARDHD、FIDH、LDDH、LDH、スュルヴィ)

FIDH(国際人権連盟)、その加盟団体であるLDDH(ジブチ人権連盟)およびLDH(フランス人権連盟)、ARDHD(ジブチ人権尊重協会)、スュルヴィ、ACP(文化・進歩協会)は、この数日間ジブチで専制的に投獄された全ての人々――人権擁護活動家、反体制派メンバー、大学生、高校生――の解放を求める。
 
数週間前から、特に2011年2月5日からの大学生と高校生による平和的なデモがジブチ共和国を揺り動かしている。実弾での発砲を含む、治安部隊によるデモ参加者たちへの容赦ない鎮圧は、とりわけ2月5日および6日に、妊娠中の女性を含む少なくとも4人の死者を出し、数十人を負傷させた。数百人の大学生と高校生が逮捕され、現在もナガド留置場、ジブチ市とバルバラの警察署、憲兵隊本部に勾留されている。
 
こうした鎮圧の嵐に便乗して、当局は緊急出頭を命じられていた反体制派と人権擁護活動家の逮捕に取りかかり、ガボドゥ刑務所に投獄した。こうして、UAD(民主化連合)のメンバー7人と、ファラ・アバディドゥ・エルディドゥとジャン=ポール・ノエル・アブディ(訳注:写真)の2人の人権活動家――それぞれ、LDDHのメンバーであり代表――が2011年2月5日と9日に逮捕された。2人は、学生デモの支持を公的に表明したことを証拠に、「騒乱への参加」容疑で不当な取り調べを受けた(※参照サイト  )。FIDH名誉代表のスアイール・ベラサン氏は「ジブチ当局は直ちに鎮圧を止め、投獄された人権擁護活動家、反体制派の人々、全ての若者を解放しなければならない」と表明した。
 
2011年2月18日から、反政府運動が政権に対して「ゼネラル」ストライキの「継続」を呼びかけているため、我々諸団体は鎮圧の増大を懸念している。こうした政治・社会不安の背景には大統領選前の緊張状態がある。その理由として、今年4月8日に行われる大統領選で、イスマイル・オマル・ゲレ大統領が3期目を迎えられるよう、2010年4月に現政権が憲法の改変を行ったことが挙げられる。FIDH名誉代表のスィディキ・カバ氏は「チュニジアとエジプトで吹き荒れる自由の風は、独裁国家に未来はないという強いメッセージを伝えている。ジブチは自由で透明な、そして多元的で信頼できる選挙を行わなければならない」と表明した。
 
我々は平和的デモの鎮圧、人権擁護活動家、反体制派および若者たちの専制的な逮捕と拘留を強く非難する。FIDH、LDDH、LDH、ARDHD、スュルヴィそしてACPはジブチ当局に以下のことを要求する。
 
・彼らの即時かつ無条件での解放に取りかかり、彼らの監視をやめること。
・1週間以上前から行われている人権侵害の事実と責任者を明らかにするための独立調査を行うこと。
・逮捕された人々、とりわけ、人権擁護活動家、反体制派および若者の身体的、道徳的安全を保証すること。これは、人権に関する、特にアフリカ人権憲章、市民的および政治的権利に関する国際規約第27条、人権の擁護に関する国連総会宣言に関する、ジブチの国際的な取り組みを尊重するためのものである。
 
我々はアフリカ連合、ヨーロッパ連合、そしてより広く国際社会に以下のことを呼びかける。
 
・ジブチ当局に、鎮圧をやめ、逮捕者の即時解放を行い、彼らの監視をやめるよう求める。
・ジブチでの人権侵害に関する国際調査委員会を設置する。
 
連絡先:カリーヌ・アピー +33 6 48 05 91 57(フランス)

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