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フランス=アフリカ関係/フランコフォニーを考えるためのブログ

   

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歴史的変動に逆らい、サス=ヌゲソ大統領の後継者に勲章を与えるフランス

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2011年2月18日(スュルヴィ、FCD:ディアスポラコンゴ人連盟)

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月10日、ニコラ・サルコジの勅令により、コンゴ共和国フランス大使のジャン=フランソワ・ヴァレットは、サス=ヌゲソ体制の表看板のコンゴ人提督、ジャン・ドミニック・オケンバにレジオンドヌール勲章を授与した。徒党的権力とその共犯者たちへの拒否運動が著しいアフリカの現況の中で、それはスキャンダルである。
 
チュニジアやエジプトでの真実は、失策を繰り返すフランス外交にとっては、明らかにコンゴでの真実ではない。今日では失脚した何人かの高官たちを支持していたのだから、フランスは大人しくせざるを得ないはずである。にもかかわらず、コンゴの提督ジャン・ドミニック・オケンバへのレジオンドヌール勲章授与が証明しているように、外交関係の一新を急ぐためには、体制の崩壊を待っていてはいけないということをフランスは明らかに理解していなかった。
 
授与式は2月11日に、非常にフランサフリック的な調子で、ブラザヴィル市2区にある旧ド・ゴール邸(非常に象徴的である)で繰り広げられ、コンゴ大統領夫妻を中心として、多くの政治家や軍人が出席した。実際のところ、ジャン・ドミニック・オケンバはサス=ヌゲソの甥で、1997年からの彼の特別顧問であるに過ぎない。その年、フランスの支援を受けた流血クーデターによってサス=ヌゲソは政権に返り咲いた。彼はまた、CNS(国家安全保障会議)の議長でもある。
 
コンゴのメディアでは、ジャン・ドミニック・オケンバは決まって「副大統領」あるいは「後継者」と呼ばれている。一族全てがそうであるように、オケンバもビジネスに手を染めている。彼は、とりわけ石油収入に関連した脱税に手を貸す仲介機関と言われる、BGFIコンゴ銀行(サス=ヌゲソ一家が所有し、ボンゴ一家とも関係がある)の理事長である。その上彼は、コンゴだけでなくフランスでも、不正な不動産取得者の常連として目を付けられているようだ。
 
一族の一員であり、あくどい商売人であり、軍人であり、また非常に謎に包まれたコンゴ・グランド・ロッジ(GNLF(フランス・グランド・ロッジ)公認で、サス=ヌゲソ大統領自らが主宰するのが伝統となっている)で入会したフリーメーソンのメンバーであるオケンバは、サス=ヌゲソの跡を継ぐ、「理想的な」フランサフリック人候補の模範的人物である。このことは、フランス大使が「騎士叙任式」で口にしたスピーチのメッセージにあらわれているように思える(ビデオ映像参照↓)。
 
「この名誉ある勲章は、フランスがジャン・ドミニック・オケンバの軍事、治安、外交分野における特質と活動に謝意を表すものです。これは、フランスとコンゴとの間の友好、友愛、協力関係の素晴らしさを意味しています。」とジャン=フランソワ・ヴァレットはスピーチし、「[前略]我がフランス共和国大統領が、ジャン・ドミニック・オケンバ氏が取り組む3つの分野を通して今日仰りたいことは[中略]国家の管理です。何よりもまず、軍が国の安定ための主要な要素であることを理解させた、彼の軍人としての務めが挙げられます。提督、あなたは兵卒としてキャリアをスタートさせ、苦労して階級を登りました。従って、軍をとても理解しており、それが国家統一の鍵であることを良く知っています。それから、治安に関しては、この特殊な分野に尽力する全ての人たちが、どれほど彼がその事に敏感であるかを知っています。脅威が拡大し、切迫し、また同時に捉え難いものになっている時に[後略]」と付け加えた。
 
この賞賛ぶりは、1997年に権力を奪取するためにサス=ヌゲソ自身が引き起こした恐ろしい戦争の結果、彼の一族の体制の中に再び組み入れられたコンゴ国民軍の徒党的、抑圧的、殺人的側面を知っている人々にとっては軽蔑に値する。いわゆる「ビーチ行方不明」事件を一例とする、罰せられることのない犯罪や、南部の一般市民との度重なる交戦によって、コンゴ軍が自らを汚しているというのに、このスピーチは容認しがたいものである。
 
その上、チュニジアでの反乱によってマグレブやその他アフリカ諸国、アラブ諸国で激昂した人々による独裁体制の全体的な見直しが既に予測されていたにもかかわらず、ジャン・ドミニック・オケンバへのレジオンドヌール勲章授与の勅令が、2010年12月31日にニコラ・サルコジによって出されていたのは大変驚くべきことだ。同じ頃、彼の外務大臣が評判の悪いチュニジア滞在をしていたのと同様に、この勲章授与によって、国家元首自身も明らかに重大な「判断ミス」を犯した。
 
アフリカの人々は自身の運命に責任を持つことができないと思っているらしい、とりわけ中身のない病的な不安と執拗さに基づく不明瞭な理論、つまり「安定」した政治が、歴史的変動によってチュニジアでは無効になったばかりだが、フランスは、トーゴやガボンでそうしたように、コンゴにおける新たな世襲を白紙委任したところだ。
 
こうしたシナリオが演じられないためには、フランスの世論、政界、何人かのフランスの指導者たちとチュニジアとのつながりに関わるスキャンダルが今日集中する国会議員たちが、他のアフリカの国々で頻繁に見られる同種の漂流も同様に告発することが必要不可欠である。
 
民主主義への人々の権利をめぐって、チュニジアやエジプトでの真実はコンゴでの真実ではないということを支持しないためには、今回の事件をうやむやにしてはいけない。
 

Jean Dominique Okemba honoré par la France
アップロード者 Congo-SiteOfficiel. - 世界中のニュース動画。

連絡先:ステファニー・デュボワ・ドゥ・プリスク
stephanie.duboisdeprisque(a)survie.org 01 44 61 03 25
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論説:荒廃したフランス帝国主義

Billets d'Afrique et d'ailleurs 199号(2011年2月)

10年以上前から、ある人々によって繰り返し囁かれる決まり文句。それは、フランスが人道的で純粋な自己犠牲によって植民地化に身を捧げた後、悲しい運命を背負ったアフリカを見捨てた、というものである。
 
さらに、合理的な一貫性を欠いた同様の事柄が、自由な種間競争という進化論を通じて決まり文句を繰り返していることに注意しよう。これまでの歴史の中で、ご立派な演説をひけらかすことはもちろん、自らの利害を追求することも全くない国が一つでもあっただろうか。それとは反対に、アフリカにおけるフランスの軍事力と私利私欲の存在が次第に目立ってきていることを認めざるを得ない。それは専ら、フランスの執拗な干渉が明らかにする数多くの言い間違いによるものであろう。完全に不透明で傲慢な嘘にまみれた時代はほぼ過ぎ去った。
 
民衆による暴動を上手に鎮圧するために、チュニジアのベン=アリー体制への警察による支援を提案したミシェル・アリヨ=マリー外相を誰もが糾弾した。しかし彼女は、人々による反乱の鎮圧のために警察権力を使う、友人である全てのアフリカの独裁者たちとつながりのある、今日のフランスの政治システムにおける右派に所属していた。彼女を誹謗する者はそのことを知っておいたほうがいいだろう。さらに馬鹿げているのは、サルコジが現在に至るまでその存在を無視していたチュニジアの人々を、彼自身が発見したことである。以前は、チュニジアと言えばベン=アリー彼一人であった。
 
サルコジからコートジボワールのバボへの馬鹿げた催告をどう考えればいいだろうか。彼がバボに48時間以内に退陣するよう伝えたのは1ヵ月以上前の話だ。このことが明らかにするのは、政治情勢の現実と、独断的なフランスの姿勢の時代錯誤ぶりへの全くの無知以外の何ものでもない。フランスは、無自覚に準備された危険地域に執拗に火花を撒き散らしながら、常に問題の近くにいようとする。コートジボワールは、専制的に物事が決定されるだけの場である。
 
フランスの政治はアフリカの人々だけを危険に陥れるのではなく、その高慢さのせいでフランス人たちの生活も犠牲にしている。敢えて言わなければならない。軍事介入がニジェールの誘拐された若者たちを解放する可能性など微塵も無かった。まして、それが反乱を抑えることなど論外である。
 
反対に、とんでもない法螺吹きの言葉を借りて「国土を恐怖に陥れる」と主張するフランスは、反乱を激化させることになるだろう。そこでは、国全土が破壊しつくされ、もはや手遅れになってから発見されるであろう、反乱を拡大した有害な腐植土を完全に無視する盲目的な政策が進められている。AQMI(イスラーム・マグレブ・アル=カイーダ機構)はどこにでも現れる悪魔でしかない。
 
中央アフリカ共和国は全てのアフリカの国々の中で、1960年から何十年もの長い間、フランスの影響力が最も強かった場所である。そのため、フランス人のマンシオン大佐が1980年代から事実上国を統治し、今日までの全ての大統領がフランス軍の支援にのみ自らの政権維持を委ねた。ブアールにあるフランス軍基地は公的に閉鎖されたが、これらのことは何も変わらなかった。それはまた、存在しないも同然の国家があり、権力の唯一の拠り所が軍隊であり、現地の資源の略奪が、地球上で最低なものの一つである、人類の発展の名の下で際限なく行われる国である。
 
任期の切れたフランソワ・ボジゼは、第1回投票の結果を受けて政権に留まり続けることになるだろう。そして、選挙への財政支援を行ったEUとフランスは「満足な」選挙結果だったと述べるだろう。それでおしまいである。今回のケースで、完璧に飾られた外観の支配を覆い隠すために、完全に沈黙しボロを出さなかった私たちはまだ幸福な暗闇の中にいる。
 
中央アフリカでは何も起っていない、と。
 
(オディール・トブネル)

大勢の特派員たちが現地入りする前のチュニジア

Billets d'Afrique et d'ailleurs 199号(2011年2月)

『ル・モンド・ディプロマティーク』紙のジャーナリスト、リアド・ベン=ファディルが、2000年に当局からピストルで暗殺された事件と、2005年にチュニスで、『リベラシオン』紙のクリストフ・ボルタンスキーが受けた襲撃は、同業者たちに衝撃を与えた。
 
もっとも、ベン=アリー大統領当局は何年もの間、厳しい情報統制によって政治的抑圧を行ってきた。
 
チュニジアで調査を行うフランスのジャーナリストは、悪名高い対外情報庁の許可を得なければならなかった。しかし、通行許可証を所持しても、私服警官が絶えずつきまとうために、ジャーナリストたちは自由ではなかった。
 
こうして、この5年間に、現地入りしたほんの一部の勇敢なレポーターや大学教員たちを除いて、「チュニジアの驚異的な経済発展」の謎めいた裏側を伝える人々はごく僅かであった。2006年、長年の仕事の成果として、チュニジア人ジャーナリストのカメル・リビディが、『ル・モンド・ディプロマティーク』紙において、チュニジアの地獄への長い下り坂を暴露した。
 
しかしながら、2008年にガフサで起こった暴動や、フランスの専門誌のジャーナリストの訴訟問題が、フランスから発信されていたらどうだったであろう。「大通りから3km圏内にある村落シディ・ブジドはあまりにひどい場所で、人々は毎朝起きるたびに死にたくなる」と、ベン・ブリック(訳注:チュニジアのジャーナリスト、反体制活動家)でさえそう書いていた。
 
12月17日に起こった、モハメド・ブアジジの絶望的な行動は爆発をもたらした。当時、AFP通信とAP通信からの緊急情報が、フランスの報道機関のほぼ唯一の情報源であった。チュニジア中部で実際に起っていた出来事から、私たちが知っているのはほんの僅かなことだけであった。
 
従って、知るためにはそこへいかなければならない。12月の終わり、教員や弁護士、ジャーナリストからなる、反体制派のリーダーたちに会いに行った。1月6日、シディ・ブジドから数キロ離れたケルアンで、私は大統領の警察に荒々しく呼び止められた。
 
その時まで、ベン=アリー当局は、私とフランスのメディアが扱い始めていたルポルタージュとのつながりを確認できていなかった。私は、ブルギバ通りで通行人にインタビューする以上の事をし、厳しい監視下にあった活動家たちと接触していた際、人目につかぬよう行動していた。
 
私はまさしく現地の人のような格好をした。リベットキャップをかぶり、徒歩で移動し、チュニスで最もランクの低いホテルに泊まり、リビアへ向かう一時滞在中のたくさんのアルジェリア人と接触した。そこでは、警察は私を全く監視しなかった。非常に厳しい彼らは、翌日すぐに出国するよう迫った。それからすぐに、迅速な対応で、フランス大使館の担当者たちは帰国の手筈を整えてくれた。
 
『ル・ジュルナル・デュ・ディマンシュ』紙の特派員、カミーユ・エステーヴが、シディ・ブジドに行った最初のフランス人ジャーナリストとなった。2010年1月10日頃のことである。
 
1週間後、ベン=アリーの逃亡によって対外情報庁がなくなり、「ジャスミン革命」を追いかけに、大勢のジャーナリストたちが到着した。

(ジャン=セバスチャン・モラ)

ジャスミン革命:フランス的偽善行為が新たに明らかに

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2011年1月27日(スュルヴィ・ジロンド)

チュニジアの歴史的な一日となった2011年1月14日は、おそらく祭日になるだろう。デモ参加者と機動隊との衝突から1ヵ月後、23年前から国家および自身の政党RCD(立憲民主連合)の頂点に立つ、独裁者ザイン・アル=アービディーン・ベン=アリーはチュニジアを去った。チュニジアの人々によるこの「ジャスミン革命」はまた、フランスによる偽善行為を彼らの前に示している。
 
スュルヴィとアタック(Attac)フランスは、アルジェリアとチュニジアの人々と連帯し、フランスの立場と同じ暴力的な鎮圧を告発するため、2011年1月12日から早速公式声明を出した。実際のところ、12月17日にモハメド・ブアジジが焼身自殺してからのフランスの沈黙は徹底しており、それは2011年1月11日まで続いた。にもかかわらず、フランス政界のお偉方による最初の干渉はいっそうスキャンダラスなものであった。
 
1月11日火曜日、ブルーノ・ル・メール農相はキャナル・プリュス(Canal+)の番組内で、「現地の状況を良く知り、何故そうした決定が下されたかを正確に理解する」ほうが良いと言明していた。同じ日、国民議会ではミシェル・アリヨ=マリー(MAM)外相が「暴力行為を遺憾に思う」と述べ、チュニジア警察に「フランス式ノウハウ」を提案した。そして、彼女が仕掛けた論争は、緑の党のセシル・デュフロ、社会党のマルティーヌ・オブリとピエール・モスコヴィッチらによる辞任要求を招いた。翌日、フランソワ・バロワン予算相・政府報道官はといえば、「これが、今日フランスがとるべきバランスのとれた立場だ」とあえて表明した。
 
フランソワ・フィヨン首相を通じて、フランスがチュニジア警察による「暴力行為の法外な行使」を非難したのは、ベン=アリー政権崩壊の前日の1月13日木曜日に過ぎない。また、フランス政府が「できるだけ早いうちの自由選挙」を求めたのも1月15日土曜日である。
 
そんな中、UMP(国民運動連合)では見解の不一致がみられたことを指摘しておこう。ディディエ・ジュリア下院議員は1月10日に、チュニジアでの事件に関する調査議員団の設置を求めた。また、ジェラール・ラルシェ上院議長は1月12日に鎮圧を非難した。左派陣営のほうは、かなり遅過ぎではあるが、ベン=アリー体制の政治を告発することで満場一致を示した。ここで、社会党所属で元大臣、また2007年11月1日からIMF(国際通貨基金)専務理事を務めるドミニク・ストロス=カーンが、2008年11月18日にレジオン・ドヌール勲章2等(グラントフィシエ)に昇級したことを思い出そう。彼は当時、「世界金融危機にもかかわらず、チュニジア経済はうまくいっている、[中略]経済政策は健全であり、多くの国々にとっての模範だと思う、[中略]チュニジアの政策に対するIMFの見解は大変肯定的である[中略]このまま正しく機能し続けるだろう」と表明した。もっとも、国際的なレヴェルで、RCDが社会主義インターナショナルから外されたのは2011年1月17日に過ぎない。
 
1月14日金曜日の独裁者の出国後も、フランスの政治家たちのところでは偽善行為が変わらず通用している。1月16日日曜日、フレデリック・ミッテラン文化相は「頻繁に言われるような、チュニジアが明らかな独裁だという考えは、私には全くの誇張に思える」と述べた。
 
予想通り国防相となったボルドー市長の言葉は同じ系譜の中にある。というのも、チュニジアが「安定した」国だったと考えるアラン・ジュペは、1月17日にオフレコで、「西洋の」国々は「警察国家」かつ「独裁国家に対するチュニジアの世論の激化を過小評価」していたと述べた。翌日のRTL(ラジオ)での次の発言はさらに驚くべきものであった。「政府が無能だったことはない」、フランスは自らの対応を「他の国々以上に」自己批判する必要はない!
 
今週1月24日月曜日、ニコラ・サルコジ大統領は(G8およびG20リーダーへの)記者会見で、UMP総裁ジャン=フランソワ・コペや総理大臣フランソワ・フィヨンを国民議会で指名したのと同じように、ミシェル・アリヨ=マリーの発言を支持すると表明し、何人もの若者たちの犠牲・自殺が、チュニジアの人々の「絶望」の度合を表すには不十分だったと打ち明けた!
 
本当のところを言えば、そのような苦しみを前に、今日のフランスの指導者たちの耳をふさぎ、目を閉じ、口を閉じたままにしているこの「頑なさ」は、彼らが普遍的な民主的価値ではなく、利己的な経済的利益を最優先にしてきたことを知っている我々にとっては驚くべきものではない。例えば、AFD(フランス開発庁)長官のドヴ・ゼラが、3日間のチュニジア公式訪問の際、2010年12月10日にエル・カンタウィ港で、シンクタンク機関IACE(アラブ企業経営者協会)によって開かれた第25回企業デーの開会式にVIPとして招待されたことが、こうした利害関係を明らかにしている。
 
サルコジが自己正当化するために引き合いに出す「歴史の重み」の中で、民主主義のための闘いに対するフランスのこうした醜悪な無為無策は、結局のところ、伝統的な偽善行為のひとつの表れでしかない。フランスの人々の一部が段々と拡大しながらこのことを自覚し、チュニジアの人々に続いて彼らが責任を負い、独裁者たちではなく、世界規模での民主化要求の全てを支持する代表者を選ぶ方法をつくることを期待しよう。

解放の嵐が吹き荒れるマグレブとその他アフリカ諸国、耳を傾けないフランス

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2011年2月17日(スュルヴィ)

北アフリカの国々で吹く自由の風は、独裁体制を追い払おうとする人々にとって希望の源である。サハラ以南アフリカではこうした願いが強いだけに、多くの独裁者たちがフランスからの支援を長く受け続けている。
 
チュニジアの平和的な革命が最終的に無効になったというような、不明瞭ないわゆる「安定」論のもとで、フランスの外交政策は数十年間にわたり、人々に嫌われた体制と彼らの国の資源の収奪者たちの支援をずっと続けている。この支援は、クーデターや不正選挙を認めたり、外交、軍事、警察を支援したり、実に親切な公的援助を行ったりといった、様々な形態をとっている。
 
フランスの外交政策は、チュニジアの革命を理解しなかったのと同様に、アフリカ各地での、自由を求める人々の強い願いを理解するつもりがないようだ。
 
チュニジアの治安維持へのフランスの支援に関する外務大臣の声明と、ベン=アリー体制の高官たちとの関係によって巻き起こったスキャンダルは、アフリカの独裁者たちに対するフランス当局の放任と共犯の一例が明らかになったに過ぎない。おそらくそれは、木を見て森を見ずといったところだ。ガボンにおいて、フランスから提供された治安維持軍需品が、ボンゴ体制に異議申し立てを行う活動家や学生たちを鎮圧するために使われている間、コンゴ共和国のフランス大使が、ドゥニ・サス=ヌゲソ大統領の右腕に、ニコラ・サルコジの名でレジオンドヌール勲章を授与していたことは、まさしくそうした無関心の中にある。
 
フランスが見ない「新しいチュニジア」は今どこにあるのだろうか? フランスが最後まで支援し続けるであろう「次のベン=アリー」はどこにいるのだろうか?
 
・1977年に権力の座についたドゥニ・サス=ヌゲソが、国の財産を横領しながら、武力と争いによって維持しているコンゴ共和国では?
・1987年のクーデターで権力の座につき、サブリージョンを不安定化した張本人であるブレーズ・コンパオレが、フランスから平和主義者と紹介されているブルキナファソでは?
・クーデターで権力の座につき、フランス軍の支援を受けているイドリス・デビが反乱の増加を放置し続けているチャドでは?
・1982年から大統領を務めるポール・ビヤが、反対するおよそ10名の命と引きかえに、権力に留まり続けるために憲法を修正したカメルーンでは?
・2005年の流血事件で権力の座についたエヤデマの息子が、1967年から続く体制を永続させているトーゴでは?
・父のあとを継ぎ、同じ方法で汚職と抑圧を行っているアリ・ボンゴのガボンでは?
・人権尊重の監視と西サハラの人々の保護を行うMINURSO(国連西サハラ住民投票監視団)のミッション拡大にフランスが反対し続けている間、西サハラ難民に対して軍事攻撃を行ったモロッコでは?
・フランスに支援された独裁者たちのいる、最近人々が蜂起しはじめたリビア、アルジェリア、(ゲレ大統領が3期目のために憲法を修正した)ジブチでは?
・クーデターを起こしたボジゼ大統領がやらせ選挙の末に「再選」したばかりの中央アフリカ共和国では?
・フランスがここ最近のクーデターの承認プロセスを支持したモーリタニアとマダガスカルでは?
 
こうした問いは、ダカール世界社会フォーラムでの議論の中で何度も繰り返されてきた。フォーラムでは、数十人のアフリカ人の参加者たちが、彼らの体制に対するフランスの支援について証言することができた。チュニジアとエジプトから始まった抵抗の風が発言の自由をもたらし、希望を抱かせたこの数日間、スュルヴィが10年前から催しの度に掲げてきた「独裁者たちへの支援をやめよう、アフリカの人たちを支援しよう」という横断幕がこれほど的確な指摘となり、ダカールほどの熱狂を呼び起こしたことはかつてなかった。
 
マグレブやそれ以外のアフリカの国々、またその他の世界では、フランスによる独裁者たちの支援に決着をつけなければならない。
 
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