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フランサフリック情報ネットワーク

フランス=アフリカ関係/フランコフォニーを考えるためのブログ

   
カテゴリー「『フランサフリック プチ・ガイド』」の記事一覧

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ジャック・シラク(1932-)

Petit guide de la Françafrique

Biya-Chirac.jpgシラクはフランサフリックという欺瞞を体現する人物である。裏側では、人権の祖国であり、アフリカの人びとの友人としての永遠なるフランスについて語り続け、表側では、いささかの責任感も持たない体制を支持し、ハッサン2世、オマール・ボンゴ、サス=ヌゲソ、ニャシンベ・エヤデマ、ポール・ビヤといった独裁者たちの親友となっていった。1970年、シャルル・パスクワが、自身が補佐していたジャック・フォカールと袂を分かち、ジャック・シラクの新ド・ゴール派に合流する。結託した2人は、1974年から1976年のあいだに、エルフ社(訳注:仏石油エネルギー企業)との関係を手始めとして、フランサフリック・ネットワークの大部分を手に入れ、同時に、ド・ゴール派の政党を奪取する(訳注:1976年12月、シラクは共和国連合(RPR)を設立し、党首に就任した)。こうしてシラクは、その後30年にわたってフランサフリックの首謀者となる。1986年に再び首相の座に就くと、彼は大胆にもフォカールを復帰させ、パスクワとフォカールがそれぞれ持っていた組織網を一つにしたのだった。
 
「同志」以上の「親友」たちを支持するために、シラクが金を出し惜しむことはなかった。例えば、ドニ・サス=ヌゲソは1974年と1988年の軍事攻撃、そして、1997年から2003年までの内戦の際に支援を受け、イドリス・デビ同様に、人道に対する罪と不正支出を隠し続けた。アンゴラゲート事件訴訟の直後、アンゴラでの武器売却について「大統領はよくご存知です」とパスクワ自身が述べたほど、シラクは精力的に活動していた。フランサフリックの首領である彼は、大統領官邸の玄関前で仰々しい抱擁をすることで、フランサフリックの独裁者たちを文字どおり支え続けた。
 
政界引退の際ですら、「シラクおじちゃん」はアフリカにとっての偽善者タルチュフを演じ、最近では、「フランス経済の大部分は、間違いなく、数世紀前からアフリカを開発し続けていることで支えられています」と口にさえしていた。今まさしく彼は、自身が設立したシラク財団の運営、とりわけ、重要課題のひとつである、不良医薬品対策に打ち込んでいるが、その理由は実に納得のゆくものである。というのも、アフリカ大陸での主な医薬品販売業者は、親しい友人のひとりであるフランソワ・ピノー(訳注:フランスの実業家)のPPRグループ(訳注:「ピノー・プランタン・ルドゥート」、仏大手コングロマリット企業で、主に流通小売業とファッションブランドを運営)が傘下に置く、CFAO(訳注:「フランス西アフリカ会社」、フランス語圏西アフリカを中心に活動しているフランスの商社)である。

☆さらに知るための本☆
★本その2★
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ジャック・フォカール(1913-1997)

Petit guide de la Françafrique

134679.jpg幼少期をフランス海外県アンティル(訳注:詳しくは、グアドループ。また、正式に海外県となるのは1946年。)で過ごしたビジネスマンのフォカールは、1944年、それ以前に築かれた重要なコネクションを買われ、シャルル・ド・ゴールに仕える最初の副高官のひとりとなる。そして、彼はすぐさまド・ゴール主義の裏側で最も重要な仕事を担当するようになる。つまりそれは、(過去に事実上率いていた)諜報機関(訳注:第二次大戦中、フォカールは1940年にド・ゴールがロンドンで設立した政府組織「自由フランス」の情報局、「情報・行動中央局」(BCRA)に所属していた。その後、BCRAは1944年11月に「研究・調査局」(DGER)に改称され、幾度かの再編を経て、現在の「対外治安総局」(DGSE)となる。)との連携、自身の組織網および戦闘的な活動家グループ(凶悪犯罪者とつながりのある、攻撃的な警備隊)の編成、(とりわけ、アフリカの植民地を通した)裏資金調達である。
 
したがって、1956年から1962年にかけてのアフリカ諸国の独立期に、彼がフランサフリックというシステムを着想し、それを指揮することに精力を注いだのは、まったくもって必然的であった。フランサフリックとは、独立を秘密裏に台無しにすることを目的としたからくりである。なぜ秘密裏かといえば、それが非合法的だからである。ド・ゴールは表向きには独立を認めたものの、(政治的、経済的、財政的、軍事的etc...)依存状態を維持させるための仕事をフォカールに任せていた。同時に、フォカールはド・ゴール派のRPF(訳注:「フランス国民連合」。1947年、ド・ゴールが第4共和制に反対して設立した政党)を、次に、UDR(訳注:「共和国民主連合」。1971年に設立された、ド・ゴール派を継承する政党。)を組織する。また、1959年に創設された悪名高いSAC(訳注:「民間行動隊」。ド・ゴール派の民間治安部隊。)の新兵養成所となる、RPF警備隊も監督していた。同じ時期、輸出入商社サフィエックス(Safiex)の貿易活動も支援している。
 
多くの旧植民地との間にフランサフリックというシステムを設置するのは、とても大がかりな任務である。「友人」の指導者たちを権力の座に就かせるには、常に代償が伴う。それは、カメルーンでのバミレケ族への虐殺行為にはじまり、アフリカの偉大な指導者たちや、独裁者に反旗をひるがえした者たちの暗殺へと続いていき、アフリカの人びとにとっての大きな希望の光が消されていった。
 
foccart-de-gaulle.jpgド・ゴールの「ムッシュー・アフリカ」(訳注:フォカールの別称)を務めた彼は、続くポンピドゥーの下でも引き続きその役割を果たす。1974年、当時の首相シラクが、フォカールが徹底的に軽蔑していたパスクワと徒党を組んでいる間は、大統領ジスカール・デスタンは彼を遠ざけていた。しかし、最終的にシラクはこの逸材を復帰させることになる。1986年の保革共存政権で再び首相を務めた際、シラクは彼を顧問に据え、フォカール主義の「継承者」となる。1997年に没するまで、フォカールは助言者でい続けたのだった(訳注:1995年にシラクからレジオン・ドヌール勲章を授与される)。

フランソワ・ミッテラン(1916-1996)

Petit guide de la Françafrique

mitterand.png1990年、ラ・ボール演説(訳注:ロワール=アトランティック県ラ・ボールで行われた第16回アフリカ・フランス首脳会議で、ミッテランは経済支援と民主化は同時になされるべきと述べた)で当てにならない民主化について語った人物は、アフリカにおけるフランスの新植民地主義政策を継続させた中心人物のひとりでもある。
 
1948年以降、彼はジャック・フォカールにならってアフリカを旅行し、現地の議員たちを使って、自身の政治的立場を強化するためのネットワークづくりをおこなった。こうして彼は海外県相(1950-1951)となる。そして、1956年には司法相に就任し、アルジェリアにおける弾圧の主要な責任者のひとりとなった。
 
1981年、大統領に就任したミッテランは、フランソワ・ド・グロスーヴル(訳注:ミッテランの側近。ルワンダ虐殺事件の引き金となったハビャリマナとンタリャミラ両大統領暗殺事件の翌日、1994年4月7日に自殺。)特別顧問に、アフリカ大陸のミッテラン・ネットワークからの情報収集を担当させる。アフリカの独裁者たちの求めに応じた彼は、協力・開発大臣補佐ジャン=ピエール・コットを素早く解任する(訳注:在任期間は1981年-1982年。コットは、それまでのフランスのアフリカ政策、とりわけ補助金支援のあり方に反対していた)。大統領府では、とにかくシラクのフランサフリック・ネットワークを妨害することに力が注がれており、そうすることで、ミッテラン一派は不当な利益にあずかることができた。たとえば、クリスチャン・ヌッチ大臣補佐(訳注:コットの後任で、外交関係を担当していた)を巻き込んだ事件(訳注:1980年代に発生した協力・開発省での横領事件)は、ミッテラン政権での汚職が拡大していたことを示している。
 
あっという間に権力を手にした息子のジャン=クリストフ・ミッテラン(訳注:1983年に大統領府のアフリカ問題副顧問に就任し、シャルル・パスクワらとフランサフリックをめぐる汚職事件に関わっていた)は、パスクワのネットワークの中で活動するようになる。こうして、ミッテラン親子はモブツ・セセ・セコ(訳注:旧ザイール)、(ミッテランの大統領補佐官を務めたジャック=アタリが熱烈に支持していた)ドニ・サス=ヌゲソ(訳注:コンゴ共和国)、ニャシンベ・エヤデマ(訳注:トーゴ)、ポール・ビヤ(訳注:カメルーン)、イドリス・デビ(訳注:チャド)、ハッサン・グレド・アプティドン(訳注:ジブチ)といった独裁者に対して、永続的な支援をもたらすことになる。大統領府の衛兵隊を経験した者たちは、傭兵養成所となる警備会社の創設者となった。ミッテランにとって「さほど重大ではない」1994年のルワンダでの大虐殺によって、彼のアフリカ政策は長い眠りにつく。それほどまでに、ジェノサイドへの荷担は信じがたいものだったのである。

☆さらに知るための本☆

クロード・ゲアン(1945-)

Petit guide de la Françafrique

5669c988.jpeg大統領ニコラ・サルコジとその右腕であるクロード・ゲアンは、ともにシャルル・パスクワを助言者としている。実際、パスクワはゲアンを内務省官房長補佐官に、続いて、国家警察総局長に任命した(訳注:ともに1994年)。それは、1995年のイスラム原理主義者によるテロ行為の数週間前のことであった。ENA(国立行政学院)出身のこの高級官僚は、この頃すでに、国内外の諜報機関とともに深い情報網を築いていた。2002年、パスクワの助言を受けたサルコジ内相によって彼は内務省に呼び戻され、官房長を務める。それ以来、彼はニコラ・サルコジの下を離れることなく、大統領官邸へと行き着く。そこでは、当然のごとく大統領府官房長官という戦略的なポストに就いた。すぐさま彼は、ひとりの有名な前任者と同じ衣装を身にまとう。ある高級官僚によると、彼は「以後、アフリカ問題と諜報活動に関する非常に高い権限を同時に手にしている。それは、ジャック・フォカール(訳注:1960年から1974年まで大統領府アフリカ問題担当次官を務めた、フランサフリックの立役者)の時代のようだ」。ジャーナリストたちがその実に精力的な外交活動に驚くと、彼は「以前からこの程度だったでしょう。違いますか?」と軽く答えた。というのも、彼のボス同様、ゲアンはとにかくどこにでも顔を出していた。外交政策もそのひとつで、国家元首やその密使たち(有力者であるロベール・ブルジもそこに含まれる)とのパリでの会合や、公務以外の国外旅行を密かに繰り返した。それは、「会議中、彼の旅行に遭遇することがしょっちゅうあります。」という風に、外交官たちを苛立たせるほどであった。
 
「古くからの友人であり、私たちの国に多大な貢献をしてくれた人びとと仲たがいすべきではありません」と述べる彼は、大統領官邸の「革新的な」外交官たちを、彼に忠実なフランサフリック・ネットワークの支持者たちに少しずつ置きかえていった。フランスのアフリカ政策に絶対的な権力を持つ彼は、ブルガリア人看護師の解放をリビアで交渉するため、アンゴラゲート事件後のアンゴラとの亀裂を修復するため、武器輸出のための貿易活動をコーディネートするため、ボンゴ親子のガボンとの大統領同士の「友情」を維持するため、ルワンダとの外交関係を立て直すため、そして、モーリタニアとマダガスカルの軍事クーデター推進者たちへの「フランスの支援」を保証し、彼らとの永続的な関係をおろそかにしないために、じかに行動している。
 
2011年のはじめ、移民・統合・国家アイデンティティ・連帯開発省が廃止された後の省庁再編で内務大臣に抜擢された彼は、フランスの「移民流動管理政策」のなかで、再入国許可に関してアフリカの国々と協定交渉をするために、公式の代表者となった。

ニコラ・サルコジ(1955-)

Petit guide de la Françafrique

a288a2ee.jpeg「独裁者たちも、汚職にまみれた政権が支配する国々も支援することはないでしょう」。ニコラ・サルコジを大統領に選出したこの公約に、これまでのフランス=アフリカ関係を断ち切ろうという意志があったとしても、彼が当選してからの行動をみれば、その約束が儀礼的な誓いでしかなかったことがすぐにわかる。そして、新大統領は、フランスの緩衝地帯(ポール・ビヤのカメルーン、ブレーズ・コンパオレのブルキナ・ファソ、イドリス・デビのチャドなど)における、「由緒のある」独裁者たちへの経済的、外交的、軍事的支援を全面的に継続しただけでなく、モーリタニアとマダガスカルで勃発した軍事クーデターを積極的に支援し、コンゴでの不正選挙によるドニ・サス=ヌゲソの再選、ニジェールのママドゥ・タンジャ政権での合憲的なクーデター、さらには、ガボンのアリー・ボンゴ一族による不正選挙を有効と認めた。もっとも、これらのことは、サルコジがシャルル・パスクワ(訳注・元内相)の政治的ネットワークの継承者であることを考えれば、それほど驚くようなことでもない。パスクワは、パトリック・バルカニー(訳注:UMP所属)のようなきな臭い人物や、マルタン・ブイグ(訳注:ブイグ・グループ社長)、ヴァンサン・ボロレ(訳注:ボロレ・グループ社長)といったフランサフリックの略奪者たちと親しい関係にある。実際のところ、フランスの経済的・戦略的影響力のためには、民主主義や人権の擁護など、彼にとっては些細なことでしかない…。
 
ニコラ・サルコジがどれほど「フランサフリック的」な考えを持っているのかを、彼の独裁者や企業に対する好意的な態度だけではかるのは不十分である。それはまた、アフリカおよびアフリカの人びとに対してなされた、いかにもサルコジ的な言い回しに満ちたスピーチからも読み取ることができる。ダカールでの演説(訳注:2007年7月26日)は、家父長主義的かつレイシスト的なものであり、そこでは、移民は犯罪者扱いされ、彼(女)らが更生する可能性は拒否された。さらに彼は、アフリカの人びとの不幸は、彼(女)ら自身にのみ責任があると述べ、罪悪感を抱かせたのだった。
 
サルコジのフランサフリック政策でただ一つ特殊なのは、その「解放された」性格、つまり、恥知らずという点である。特に、ロベール・ブルジ(訳注:フランスの弁護士)やアリー・ボンゴにレジオン・ドヌール勲章を与え、さらには、トタル社にアンゴラの石油資源を与えるために、アンゴラゲート事件(訳注:2001年にフランス=アンゴラ間でおこった汚職事件)訴訟の進展を公然と遅らせている…。最近も実に興味深い出来事があった。2010年7月14日に、「独立」50周年記念をシャンゼリゼ通りで祝うため、アフリカの独裁者たちと「家族会議」を開いたことである。

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