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フランサフリック情報ネットワーク

フランス=アフリカ関係/フランコフォニーを考えるためのブログ

   

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チュニジア:いつものビジネス

Billets d'Afrique et d'ailleurs 185号(2009年11月)

第1回投票で90%近い十分な票を獲得し、ベン=アリー大統領が再々々々選された。この選挙の真似事の翌日、フランス外務省は慣例の記者会見で一つの質問に答えた。「我々の2つの国と人々をひとつにする友好関係を深めるための、我々の決意を再確認したいと思います。チュニジアは社会、経済、政治改革のプロセスにおいて、フランスからの支援を頼りにすることができます」。中でも、フランソワ・フィヨン首相が2009年4月にチュニジアと原子力協力協定を結んだ後の経済改革が著しい。フランス好きの独裁者たちが常にそうであるように、外務大臣は大統領府のやる気のない発言にご丁寧に同調している。

2008年4月のチュニジア訪問を思い出そう。サルコジは「チュニジアは自らの意志で民主主義を選びました」と断言し、「普遍的」人権のためになされた取り組みが「完全に信頼できる」と思い込み、また「いかなる国も、個人の自由と尊厳への道のりを外れることなく辿ることはできません」と明言しながら、チュニジアでは「自由権の保障が拡大しています」と大真面目に表明することさえできた。

選挙の前日と翌日に起こった3人のジャーナリストの逮捕の後、我々の外交の無関心の中で起こっている他の数十人の同業者たちへの脅迫や暴力を忘れることなく、チュニジアの民主主義者たちはこうした発言を甘受し続けなければならない。

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チュニジア:ベン=アリーとシラクの老害

Billets d'Afrique et d'ailleurs 121号(2004年1月)

チュニジアで人権についてジョークを飛ばし(前回の記事参照)、主人を支えるベン=アリーの暴政を扇動することに決めたシラクは、世界中に衝撃を与えた。独裁者と肩を並べて表に登場することが、時代遅れなものかもしれないということに気づいているのだろうか? 何人かの独裁者の友人たちと同じことをする前に、時流について考えるよう彼にすすめよう。このようなことを続けていると、世論における彼のイメージが段々と悪くなっていくだろう。これからもずっと、彼が自分のお得意たちの信用を(彼らの資源を涸渇させながら)集めていくとは思えない。

(ピエール・カミナード)

新聞記事にみる、ジャック・シラクの人権意識

Billets d'Afrique et d'ailleurs 121号(2004年1月)

2003年12月6日付『ル・ソワール』紙(訳注:ベルギーの日刊紙)、「ジャック・シラクにとっての人権」(ボードゥアン・ルース記者)より。
 
フランスは人権の祖国といわれる。その国の住人たちはそのことを自慢する。指導者たちはその心地良い評判を誇る。フランス大統領のジャック・シラクは、熱心かつ雄弁にその価値観を体現する。ああ! そうしたことの全てが、妥協による汚い現実を覆い隠すには不十分なこともあるのだ。チュニジアに関する、大統領の声明がそれを証明している。
 
ベン=アリー大統領のチュニジアで、ラディア・ナスラウィの事件以後、シラクは人権の尊重を口にしようと焦っている。チュニジアの弁護士であるナスラウィ氏(訳注:人権擁護活動家)は、彼女もその犠牲となった、警察による嫌がらせをやめさせるため、51日間ハンストを続けている。シラクはこう漏らした。「人権とは何よりもまず、食べること、治療を受けること、教育を受けること、そして住まいを持つことです」。
 
フランスでもチュニジアでも、多くの人々が錯覚だと思った。[中略]事実は単純で、手におえず、教訓的で、かつ恐ろしいものである。確かに、チュニジアでは大部分の人々が食事をとり、治療を受け、学校へ行き、住まいを持っている。しかし、チュニジアの人々はいかなる自由も享受しておらず、それは法治国家と民主国家を裏切っている。非常な警察国家に住む人々は、独立した司法に頼ることができず、表現の自由、集会の自由、政治活動の自由、報道の自由がない。
 
人権問題に取り組む当局のあらゆる機関は、パリ同様チュニスとも同じ立場である。つまり、人権を食べることと沈黙することとしか思っていないフランス大統領は、チュニジアの人々に対する信じられない思い違いを晒したのだ。踏みにじられた自由とともに、チュニジアの人々は今、自らの誇りも踏みにじられている。
 
2003年12月3日、チュニジア大統領ザイン・アル=アービディーン・ベン=アリーとの会見の後、シラクは報道陣たちに滑稽な間違いを犯した。「フランスにもハンストをした人々、している人々、するであろう人々がいます」。「新興国の中でも、チュニジアの情勢はとりわけ輝かしいものです」。ラディア・ナスラウィは、大変控えめに述べられたこの呆れるほどの失念ぶりを高く評価した。「食べなさい、そして黙りなさいなどと言えないはずです! 自由と誇りは最も大切なものです」。チュニジアの人々に対するシラクの侮辱は、チュニジアにいる中産階級の存在によって説明されるのだろうか? 我々の大統領は、間違いなく自分たちの製品を売りたい実業家たちと同行していた。密かに仕事をするために……。
 
(シャロン・クルトゥー)

チュニジア:フランスの友人

Billets d'Afrique et d'ailleurs 134号(2005年3月)

2005年2月1日付『リベラシオン』紙によると、「ジャン=ピエール・ラファラン首相は、チュニジアへの2日間の公式訪問の中で、10月に94.5%の票を獲得し再選されたチュニジア大統領の熱烈な信者を自任した」。これまでの「選挙」を思い出そう。生涯大統領であり続けたいベン=アリーの力で、反対派の逮捕という新しい波が起こり、憲法が改変されてきた。数年前、ジスカール・デスタン元大統領が「ハサン2世(※1)とは仲が良い」と表明したように、ラファランは殊勝げに「私たちが愛し合い、理解し合うのは当然です」と打ち明けた。その理由として、ベン=アリーの側近たち(と独裁者である彼自身)がフランサフリックの世界と維持しているビジネス関係を疑いなく挙げることができる――フランスの司法の心遣いにより、パスクワの息子(※2)をチュニジアに逃がしていること(※3)などが物語っている……。お決まりの表現を使うと、「2国間の通商関係」のセールスマンには、地球上で最も全体主義的な国家の一つを前にすると、それほどまでに我を忘れて夢中になってしまうほど素晴らしい理由があるのだ。フランスサフリックの防波堤にアメリカの利害が絡んできたときなど特にそうである。「シラク大統領とベン=アリー大統領は世界に対する共通のヴィジョンをお持ちです」とラファランは睦言を交わす。驚くような話だろうか? 彼のような他の多くの独裁者のように、スーパー・コップ、ベン=アリーは、フランスの防衛大学で理論化された「破壊活動防止」方法を教え込まれている。彼は拷問行為に躊躇することなく、人々への強行的な碁盤目警備を押し進めた。我らが首相はさらに、「私はチュニジアとチュニジアの人々を愛しています」と断言する。何人かのチュニジアの人々は同じ感情を持っているが、全員ではない、と断言しよう。反体制派のタウフィック・ベン・ブリックが、2000年のハンストの際に述べた言葉を思い出そう。「非常に長い間、ベン=アリーの卑劣な体制の最も忠実な支持者だったジャック・シラクを非難します」。我々がすべきことは、投獄された民主主義者たちの「世界に対する共通のヴィジョン」をより自発的に共有し、アフリカの民主主義の殺し屋たちに対する、フランス当局の活発な支援を告発し続けることである。
 
(ヴィクトール・セーグル)
 
訳注
※1ハサン2世(1929-1999):モロッコの元国王(在位期間:1961-1999)
※2ピエール=フィリップ・パスクワ(1948-):元フランス内務相(1986-88、1993-95)シャルル・パスクワ(1927-)の息子。
※3 1993年から1995年にかけて起こった、フランスの重電・輸送機器大手のアルストムをめぐる汚職事件(通称「アルストム事件」)に関与していたピエール=フィリップ・パスクワは、当時チュニジアに逃亡していた(2000年以来)。その後、彼は2006年1月に業務上横領隠匿罪で起訴され、2007年9月にフランスに帰国し、その翌々月に懲役2年および罰金30万ユーロを言い渡された。

抑圧と社会、チュニジアにおけるフランス開発庁の大きく隔たった立場

Billets d'Afrique et d'ailleurs 198号(2011年1月)

CRLDHT(チュニジア自由人権尊重委員会)によると、シディ・ブジド(※1)の人々を支援する委員会のスポークスマンとPDP(進歩主義民主党)(※2)の事務所員が、3日間の勾留の後、12月31日に釈放された。年末の恩赦だろうか? 数時間後、CRLDHTはガフサに集まっていた何人もの弁護士たち、次いで、チュニス、ジェンドゥーバ、グロンバリアにいた同業者たちに対する暴力的な検挙を警告した……。これは、AFD(フランス開発庁)(※3)長官が12月8日から10日まで訪問した、チュニジア独裁政権の慣習である。AFDのウェブサイトによると、そこでは1億1500万ユーロの財政融資協定が結ばれ、「開発戦略も模範的な国」と称賛された。また、長官のドヴ・ゼラは「経済発展と社会発展の支援を同時にすすめる、チュニジアにおける同庁の2重の立場の実例である、AFD とProparco(経済協力振興出資会社)(※4)が出資するいくつかのプロジェクトを視察した」。チュニジアの体制の素朴な姿は、公的機関の働きによって描かれているのではないだろうか?
 
訳注
※1シディ・ブジド:チュニジア中部の町。2010年12月17日、モハメド・ブアジジ(当時26才)が焼身自殺した場所。
※2 PDP:1983年に創設され、1988年に認可された社会主義を掲げる政党。政府補助金に頼らず、党機関紙の講読収入で運営されている。ベン=アリー政権と対立。議席はない。
※3 AFD:1941年設立。フランスの海外開発援助業務の執行機関。本部はパリに所在し、アフリカ諸国を中心に44の海外支店網が対象地域をカバーしている。主要業務は、①発展途上国向け支援、②フランス海外県・海外領土向け支援、③ODAの代理執行業務。
※4 Proparco:AFDの傘下にある機関。

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