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カテゴリー「チュニジア」の記事一覧

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大勢の特派員たちが現地入りする前のチュニジア

Billets d'Afrique et d'ailleurs 199号(2011年2月)

『ル・モンド・ディプロマティーク』紙のジャーナリスト、リアド・ベン=ファディルが、2000年に当局からピストルで暗殺された事件と、2005年にチュニスで、『リベラシオン』紙のクリストフ・ボルタンスキーが受けた襲撃は、同業者たちに衝撃を与えた。
 
もっとも、ベン=アリー大統領当局は何年もの間、厳しい情報統制によって政治的抑圧を行ってきた。
 
チュニジアで調査を行うフランスのジャーナリストは、悪名高い対外情報庁の許可を得なければならなかった。しかし、通行許可証を所持しても、私服警官が絶えずつきまとうために、ジャーナリストたちは自由ではなかった。
 
こうして、この5年間に、現地入りしたほんの一部の勇敢なレポーターや大学教員たちを除いて、「チュニジアの驚異的な経済発展」の謎めいた裏側を伝える人々はごく僅かであった。2006年、長年の仕事の成果として、チュニジア人ジャーナリストのカメル・リビディが、『ル・モンド・ディプロマティーク』紙において、チュニジアの地獄への長い下り坂を暴露した。
 
しかしながら、2008年にガフサで起こった暴動や、フランスの専門誌のジャーナリストの訴訟問題が、フランスから発信されていたらどうだったであろう。「大通りから3km圏内にある村落シディ・ブジドはあまりにひどい場所で、人々は毎朝起きるたびに死にたくなる」と、ベン・ブリック(訳注:チュニジアのジャーナリスト、反体制活動家)でさえそう書いていた。
 
12月17日に起こった、モハメド・ブアジジの絶望的な行動は爆発をもたらした。当時、AFP通信とAP通信からの緊急情報が、フランスの報道機関のほぼ唯一の情報源であった。チュニジア中部で実際に起っていた出来事から、私たちが知っているのはほんの僅かなことだけであった。
 
従って、知るためにはそこへいかなければならない。12月の終わり、教員や弁護士、ジャーナリストからなる、反体制派のリーダーたちに会いに行った。1月6日、シディ・ブジドから数キロ離れたケルアンで、私は大統領の警察に荒々しく呼び止められた。
 
その時まで、ベン=アリー当局は、私とフランスのメディアが扱い始めていたルポルタージュとのつながりを確認できていなかった。私は、ブルギバ通りで通行人にインタビューする以上の事をし、厳しい監視下にあった活動家たちと接触していた際、人目につかぬよう行動していた。
 
私はまさしく現地の人のような格好をした。リベットキャップをかぶり、徒歩で移動し、チュニスで最もランクの低いホテルに泊まり、リビアへ向かう一時滞在中のたくさんのアルジェリア人と接触した。そこでは、警察は私を全く監視しなかった。非常に厳しい彼らは、翌日すぐに出国するよう迫った。それからすぐに、迅速な対応で、フランス大使館の担当者たちは帰国の手筈を整えてくれた。
 
『ル・ジュルナル・デュ・ディマンシュ』紙の特派員、カミーユ・エステーヴが、シディ・ブジドに行った最初のフランス人ジャーナリストとなった。2010年1月10日頃のことである。
 
1週間後、ベン=アリーの逃亡によって対外情報庁がなくなり、「ジャスミン革命」を追いかけに、大勢のジャーナリストたちが到着した。

(ジャン=セバスチャン・モラ)
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ジャスミン革命:フランス的偽善行為が新たに明らかに

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2011年1月27日(スュルヴィ・ジロンド)

チュニジアの歴史的な一日となった2011年1月14日は、おそらく祭日になるだろう。デモ参加者と機動隊との衝突から1ヵ月後、23年前から国家および自身の政党RCD(立憲民主連合)の頂点に立つ、独裁者ザイン・アル=アービディーン・ベン=アリーはチュニジアを去った。チュニジアの人々によるこの「ジャスミン革命」はまた、フランスによる偽善行為を彼らの前に示している。
 
スュルヴィとアタック(Attac)フランスは、アルジェリアとチュニジアの人々と連帯し、フランスの立場と同じ暴力的な鎮圧を告発するため、2011年1月12日から早速公式声明を出した。実際のところ、12月17日にモハメド・ブアジジが焼身自殺してからのフランスの沈黙は徹底しており、それは2011年1月11日まで続いた。にもかかわらず、フランス政界のお偉方による最初の干渉はいっそうスキャンダラスなものであった。
 
1月11日火曜日、ブルーノ・ル・メール農相はキャナル・プリュス(Canal+)の番組内で、「現地の状況を良く知り、何故そうした決定が下されたかを正確に理解する」ほうが良いと言明していた。同じ日、国民議会ではミシェル・アリヨ=マリー(MAM)外相が「暴力行為を遺憾に思う」と述べ、チュニジア警察に「フランス式ノウハウ」を提案した。そして、彼女が仕掛けた論争は、緑の党のセシル・デュフロ、社会党のマルティーヌ・オブリとピエール・モスコヴィッチらによる辞任要求を招いた。翌日、フランソワ・バロワン予算相・政府報道官はといえば、「これが、今日フランスがとるべきバランスのとれた立場だ」とあえて表明した。
 
フランソワ・フィヨン首相を通じて、フランスがチュニジア警察による「暴力行為の法外な行使」を非難したのは、ベン=アリー政権崩壊の前日の1月13日木曜日に過ぎない。また、フランス政府が「できるだけ早いうちの自由選挙」を求めたのも1月15日土曜日である。
 
そんな中、UMP(国民運動連合)では見解の不一致がみられたことを指摘しておこう。ディディエ・ジュリア下院議員は1月10日に、チュニジアでの事件に関する調査議員団の設置を求めた。また、ジェラール・ラルシェ上院議長は1月12日に鎮圧を非難した。左派陣営のほうは、かなり遅過ぎではあるが、ベン=アリー体制の政治を告発することで満場一致を示した。ここで、社会党所属で元大臣、また2007年11月1日からIMF(国際通貨基金)専務理事を務めるドミニク・ストロス=カーンが、2008年11月18日にレジオン・ドヌール勲章2等(グラントフィシエ)に昇級したことを思い出そう。彼は当時、「世界金融危機にもかかわらず、チュニジア経済はうまくいっている、[中略]経済政策は健全であり、多くの国々にとっての模範だと思う、[中略]チュニジアの政策に対するIMFの見解は大変肯定的である[中略]このまま正しく機能し続けるだろう」と表明した。もっとも、国際的なレヴェルで、RCDが社会主義インターナショナルから外されたのは2011年1月17日に過ぎない。
 
1月14日金曜日の独裁者の出国後も、フランスの政治家たちのところでは偽善行為が変わらず通用している。1月16日日曜日、フレデリック・ミッテラン文化相は「頻繁に言われるような、チュニジアが明らかな独裁だという考えは、私には全くの誇張に思える」と述べた。
 
予想通り国防相となったボルドー市長の言葉は同じ系譜の中にある。というのも、チュニジアが「安定した」国だったと考えるアラン・ジュペは、1月17日にオフレコで、「西洋の」国々は「警察国家」かつ「独裁国家に対するチュニジアの世論の激化を過小評価」していたと述べた。翌日のRTL(ラジオ)での次の発言はさらに驚くべきものであった。「政府が無能だったことはない」、フランスは自らの対応を「他の国々以上に」自己批判する必要はない!
 
今週1月24日月曜日、ニコラ・サルコジ大統領は(G8およびG20リーダーへの)記者会見で、UMP総裁ジャン=フランソワ・コペや総理大臣フランソワ・フィヨンを国民議会で指名したのと同じように、ミシェル・アリヨ=マリーの発言を支持すると表明し、何人もの若者たちの犠牲・自殺が、チュニジアの人々の「絶望」の度合を表すには不十分だったと打ち明けた!
 
本当のところを言えば、そのような苦しみを前に、今日のフランスの指導者たちの耳をふさぎ、目を閉じ、口を閉じたままにしているこの「頑なさ」は、彼らが普遍的な民主的価値ではなく、利己的な経済的利益を最優先にしてきたことを知っている我々にとっては驚くべきものではない。例えば、AFD(フランス開発庁)長官のドヴ・ゼラが、3日間のチュニジア公式訪問の際、2010年12月10日にエル・カンタウィ港で、シンクタンク機関IACE(アラブ企業経営者協会)によって開かれた第25回企業デーの開会式にVIPとして招待されたことが、こうした利害関係を明らかにしている。
 
サルコジが自己正当化するために引き合いに出す「歴史の重み」の中で、民主主義のための闘いに対するフランスのこうした醜悪な無為無策は、結局のところ、伝統的な偽善行為のひとつの表れでしかない。フランスの人々の一部が段々と拡大しながらこのことを自覚し、チュニジアの人々に続いて彼らが責任を負い、独裁者たちではなく、世界規模での民主化要求の全てを支持する代表者を選ぶ方法をつくることを期待しよう。

チュニジア:革命の経済的、社会的要因

Billets d'Afrique et d'ailleurs 199号(2011年2月)

チュニジアで先頃起こった政権崩壊は、何よりもまず民主的な革命である。しかしながら、革命の引き金となった社会的な蜂起という側面はまだ明らかにされていない
 
それは、革命プロセスの初めから(一時的な)終わりまでの真実である。変動のきっかけが、ディプロムを持った失業中の若者モハメド・ブアジジによる絶望に満ちた行為だったことを思い出そう。2010年12月17日、彼はシディ・ブジドの県庁前で焼身自殺した。
 
チュニジア中部に位置する人口約4万人のこの町は、海岸沿いの街の開発のために、政権によって計画的に見捨てられた地域のひとつである。失業率は46%で、若者の場合は60%にものぼる。(チュニジア最南端の地域とは異なり)砂漠地帯からは遠く離れており、豊かであるに違いない農地を抱えている。ところが、地域の80%の土地がベン=アリーを取り巻く一味によって独占されていたのだった。
 
何千人ものディプロムを持った失業中の若者
 
しばしば多くのディプロムを持ち、それにもかかわらず将来の確かな展望(「良い家柄」の出であるとか、良い「コネ」を持っているとか)のない失業者の若者たちの絶望は、シディ・ブジドや国内の他の地域を越えてゆく。
 
若きブアジジの犠牲によって巻き起こった火花は、国全体を巻き込むことができた。彼は(公式の商売でない「無許可の」物売りをしながら、苦労して生活費を稼いでいた際の)地元警察による嫌がらせに抵抗したかったのだ。
 
それが可能だったのは、数十万人のチュニジア人たち――青少年たち――が、彼が松脂油をかぶってから2週間後、死んだ不安定な若者の状況に自分たちの姿を見たからである。「ディプロムを持った失業者」という言葉は、マグレブの国々全体で知られている。モロッコでは、およそ10年前から組織的な「ディプロムを持った若者の運動」がある。
 
チュニジアでは、状況はとうとうより爆発的となった。何故なら、どんな合法的な抗議行動も、ベン=アリー体制の崩壊以前には不可能であり、異議申し立てにはいかなるはけ口も与えられていなかったからである。それでも、モロッコ、チュニジア、あるいはまた(少し異なるが)エジプトの3国には共通点がある。
 
チュニジア、モロッコ:無資格労働者たちのための経済
 
教育やディプロムのレヴェルが上がれば上がるほど、失業者のまま人生を終えるおそれがある。公式の統計――とりわけモロッコで顕著である――ですら認めているこうした現状は、奥深い経済構造に起因している。それは、一方で「低資格での」雇用が優勢に立っていることからも明らかである。それは、経営者がもはや低賃金で従順な労働者を(こぞって)見つけなくなったヨーロッパから分散している状況である。
 
チュニジアの場合、経済の大部分が下請けによって支えられており、ヨーロッパの市場による相当の「いたずら」に対する強い依存関係がある。例えば、チュニジアで車の絨毯を作らせている自動車工業の分野がそうである。車そのものは他の場所で作られているのにだ。
 
2008年にヨーロッパを襲った(とりわけ自動車産業における)財政金融危機で、チュニジアの下請けの状況はより一層悪化した。
 
このことは、(「安くつく」観光産業の23万人に次いで)20万人の雇用を抱える、2番目に大きい繊維産業についても同じことがいえる。特に、2005年にマルチファイバー協定(MFA)の期限が切れ、世界的な競争が激化して以来そうである。
 
他方では、経済の「選択肢」、より良い雇用、金利収入の独占があり、マフィア的な一族――ベン=アリーとその妻レイラの一家がそこにいる――によってつくられた状況(自動車輸入の独占)は、あらゆる就職口を閉ざすことに寄与している。
 
社会的要因が反乱のはじまりにあったとすれば、それは、その一時的な結末の際にもあったはずである。政治体制の変化(1999年11月17日から首相を務めたモハメッド・ガンヌーシをはじめ、何人かの人間は残っているが)は、多くの企業において――下層労働者たちによる――指導者たちの締め出しをもたらした。労働者たちは旧体制および蔓延する汚職のネットワークに巻き込まれていたのだった。
 
そのため、汚職で腐りきった――ヨーロッパの他の航空会社に倣って――チュニスエアの社長は、6階の事務所に閉じこもらなければならないと考えたのだった。給与の支払いを求める社員たちがいるために・・・。
 
権力への寄生
 
現在、チュニジアの地方のブルジョアたちの一部は、進行中の社会変動の中で儲けることが可能である。実際のところ、自国民たちに囚われた企業(とりわけ中小企業)は、状況をほぼ全く利用できておらず、支配するマフィアによって金を搾り取られていた。彼らは何ももたらすことなく、株の利益を取り立てるために経営参加を強く要求した。
 
反対に、国際的な大資本――とりわけフランスとヨーロッパの――は、権力を持ったマフィアとうまくやっていくことに成功した。つまり、彼ら大資本は最も地位の高い人物たちと直接商売していたのだった。
 
フランステレコム・オランジュグループの例を挙げよう。オランジュ社のチュニジア支店は49%がフランスの企業の所有であるが、51%はベン=アリーの娘の婿であるマルワン・マブルークの持ち物である。現在、彼は国外逃亡中で、フランスの多国籍企業がこの取るに足りない問題に直面している・・・。
 
とりわけヨーロッパの国際資本は、チュニジアに移転された彼らのコールセンター――フランスの電話オペレーターのコールの8%から12%がこの国経由である――が、ストライキや進行中の大変動により現在十分に機能していないために苦しんでいる。
 
(ベルナール・シュミッド)

チュニジア:フランスの外交政策の漂流と遭難

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Billets d'Afrique et d'ailleurs 199号(2011年2月)


社会政治的異議申し立ての広がりを評価できないフランスは、そのシニスム的態度で再び注目を浴びている 

ベン・アリー体制の安全を保障しようとするミシェル・アリヨ=マリー外務大臣の意欲は、政治的失策ではなく、チュニジアを支配するフランスの政策である。さらに、彼女は公式文書に目を通していたために、ラジオ取材によって罠にかけられることもなかった。
 
彼女がサルコジの安全保障政策の漂流に十分に慣れていたことも思い出そう。テレビ監視装置の熱心な支持者であり、予審判事の死の首謀者である外務大臣は、タルナック事件の際の内務大臣であった。また最近では、自らの選挙地盤において、バスクの活動家であるオーロール・マルタンに対して出されたEU共通逮捕状に全く以って無関心なままであった。
 
チュニジアでは、ザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー大統領がフランス政府からの厚情を常に享受していた。とりわけそれは、その国の経済の「驚異的発展」をいつも口にしていたジャック・シラクによるものである。
 
マス・メディアがベン=アリー体制の本質を暴く時
 
こうして、フランスの外交政策の方針はベン=アリーの遭難まで維持された。あちらの側では、大人しかった一般のジャーナリストたちが、崩壊しかけたベン=アリー体制の暴力と専制を暴きつつあった。
 
彼らがミシェル・アリヨ=マリーの言葉を無価値であると判断すれば、これまでの長く抑圧された期間の彼らの徹底的な沈黙は、もはや非難されるべきものではないのではないだろうか? 無料日刊紙『20 minutes』のジャーナリスト、ベレニス・デュビュックは「ジャスミン革命」というタームを1月11日に初めて用いた人物の一人である。というのも、1987年にベン=アリー自身が、自らのクーデターを名指すためにこの表現を使ったのだ。ジャーナリストらしい略語というか、価値のない情報の記号ではないだろうか?
 
1週間前から、チュニジアでは同じようなテーマが「取り上げ」られ、特派員が動き回り、どのメディアも元政治囚をインタビューし、民主化への移行という「暗号解読」と、フランスまたはスイスにあるとみられるトラベルシ一族の財産に関する「徹底的な」調査がなされている。しかしながら、何年もの間、亡命した活動家たちは絶望的になりながらも、パリの大多数の新聞・出版社による事実の否認とぶつかってきた。このところ、メディアは反体制派のモンセフ・マルズキが当時はほとんど無名であり、2009年にbastamag.netというサイトに一件のインタビューがあるだけだ、と口にしてばかりいる。
 
チュニジア人たちの仲間
 
パリによるベン=アリー体制の絶対的な支持の理由をどのように説明できるだろうか? それは、彼の側近たちのマフィア的ともいえる行動が、地中海南部を大きく飛び出しているだけに難しいものである。
 
2006年、権威を失った大統領の親類である2人の甥、トラベルシ兄弟がボニファシオ(訳注:コルシカ島南端の町)でヨットを盗んだとして起訴された。そのヨットは、ジャック・シラクに近しい人物であり、ラザード・フレール銀行元総裁のブルーノ・ロジェの所有物であった。船舶保険会社の調査は、外装のかえられたヨットをチュニス北部の高級住宅地シディ・ブ・サイドの港で発見し、秘密裏に持ち主に返却した。
 
私たちは、人権の擁護よりもフランスの貿易および戦略的利害が優先されることを知っている。
 
その上、チュニジアでは、警察による抑圧と基本的人権の軽視が経済システムと緊密に結びついている。「チュニジア人たちの仲間」と名付けられた非常に有力なフランス人グループが、チュニジアの大統領に対し、いつまでも変わらぬ忠誠を示し続けている。彼らの中には、ベナンの体制に対する「独裁」という呼称に異議を唱えた、フレデリック・ミッテラン文化相がいる。チュニジア出身の数少ない有名人であるベルトラン・ドラノエや貿易担当大臣のピエール・ルルーシュは、長い間チュニジアの不安定な見通しを肯定的に宣伝してきた。
 
「外国の政府について評価を下す前に、現地の状況をしっかり知るべきだ」。ブルーノ・ル・メール農相はそう注意を促した。実際のところ、わずかなフランス人たちだけが、ベン=アリー大統領から受ける一連の恩恵を享受すること、つまり知ることができた。チュニジアが「素晴らしいやり方」でミシェル・アリヨ=マリーをもてなし続けていた間、彼女は身のまわりの安全を守ることしか考えていなかった。
 
というのも、昨年の夏、彼女はハマメットにあるフェニシア・ホテルの大統領専用スイートルームで数日を過ごした。12月の終わり、人々による異議申し立てが形をなしていたころ、彼女は北西部タバルカの別荘で新年を祝っていた。おそらく彼女は、チュニジアの「現実」を十分に高く評価している、同胞のドミニック・ボーディス議員と会っていただろう。
 
ベン=アリーのもとでのフランスのおいしい金儲け
 
当然、ベン=アリー体制下に不可欠な労働法は、現地の数千あまりのフランス企業の都合の良いようにできているようだ。
 
2億8千万ユーロという記録を持つ、最高の外国人投資家であるフランスは、繊維部門やエレクトロニクス部門(ヴァレオ、フォーレシア、サジェム、EADSなど)、コール・センター業務(テレパフォーマンス)において、チュニジアで特に目覚しく活動している。
 
その他の例を挙げよう。ベン=アリー大統領は、ベン・アルス県にある約3,500人を雇用するサジェム社でいつも大変もてなされていた。2009年、フランス人グループの工場・物流監督のエリック・フォーブリは、モハメッド・ガンヌーシ首相から、品質向上に対する政府最優秀賞を受け取った。国が資格のある若者たちの失業に苦しんでいるにもかかわらず、生み出された雇用がほんの僅かであっても大したことではないのだ。
 
フランス=チュニジア商工会議所は、2国間のビジネスを支える柱である。フランス=チュニジア友好協会会長のクリスチャン・ドゥ・ボワシューは、首相府の顧問である。イスラム文化研究所の新しい代表であるアキム・エル=カルイは、アラブ企業経営者協会の一員であると同時に、ジャン=ピエール・ラファランとチュニジア商工会議所会頭エディ・ジラーニの側近である。また、ジラーニの娘のひとり、ゾラはベラセン・トラベルシの妻である。
 
またとりわけ、高級ホテル業の全てを仕切っているオスニ・ジェマリなどは、ドゥブレ一家やギヨーム・サルコジと親密な関係を維持している。「第2のチュニジア大使」の異名をとるジェマリは、エルヴェ・ノヴェリ観光担当相から、2008年にレジオンドヌール勲章のシュヴァリエを授与された。
 
ジェマリは「フランス領チュニジア」の中心人物と見なされている。元ジャーナリストである彼は、ラガルデール・グループで編集長を務めるクリスチャン・ドゥ・ヴィルヌーヴ、『ヌーヴェル・オプセルバトゥール』誌のジャン・ダニエル、元TF1社長で『フィガロ』紙の現編集長であるエティエンヌ・ムジョットらと密接につながっている。
 
時代遅れの外交
 
繰り返しになるが、フランスの外交政策は人権の軽視という点で際立っている。しかし、その無能力ぶりはチュニジア人たちにも及んでいる。というのも、社会的異議申し立ての広がりを評価することのできないパリは、最もシニカルな現実政策の中でも、何ら新しい展開を示さなかったのである。
 
近い将来、民主的なチュニジアは誰と特権的パートナーシップを結ぼうとするだろうか? ベン=アリー的な抑圧体制とつながろうとする国だろうか? それとも、民主的開放を喜ぶ国だろうか?
 
ベン=アリーの失墜から2週間後、ニコラ・サルコジはチュニジアフランス大使のピエール・メナを解任し、それまでバグダッドにいた、サルコジ主義のスター外交官と見なされ、ビジネス外交を展開するボリス・ボワロンを後任においた。
 
この間、大統領府は見通しのない状況の中で常に説明を探し求めている。『カナール・アンシェネ』紙によれば、アラン・ジュペとミシェル・アリヨ=マリーの反応は、フランスの外交官たちに対して辛辣である。「我々は絶えず深い霧の中にいた」と彼らは述べている。それは、ベン=アリーの宮殿にあるハマムの霧のことではないだろうか? 何故なら、ベン=アリーの衰退については数多くの分析家(※1)たちが述べており、現地では、2年以上前から人々の間で変化が著しかったのだ。それはとりわけ、人権活動家やジャーナリスト、独立した弁護士たちの強固なネットワークの中にあった。
 
数週間前、ウィキリークスがチュニジアの米国大使館の外交電報を暴露した。それは、2007年8月14日付のもので、2005年から2009年までのフランス大使セルジュ・デガレが、「チュニジアは独裁ではなく、指導者たちは人々に常に耳を傾けている」と述べていた。
 
その翌年、ガフサにある鉱床での社会運動が、ベン=アリー体制による血まみれの鎮圧という結果で終わった。当時、チュニジアを訪問したニコラ・サルコジは、自由権が保障された空間の発展を讃えたために、人々の憤激を買った。
 
(ジャン=セバスチャン・モラ)
 
※1 2007年以降その存在感が薄くなった外務省の報告書や、アメリカの外交官、また政治学者ベアトリス・イブーらフランスの研究者たちによって述べられている。イブーの著作に『チュニジアにおける抑圧の経済学』(La découverte, 2006)、また論文に「カメル・リビディ:チュニジアの地獄への長い下り坂」(ル・モンド・ディプロマティーク、2006)がある。

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