もっとも、ベン=アリー大統領当局は何年もの間、厳しい情報統制によって政治的抑圧を行ってきた。
チュニジアで調査を行うフランスのジャーナリストは、悪名高い対外情報庁の許可を得なければならなかった。しかし、通行許可証を所持しても、私服警官が絶えずつきまとうために、ジャーナリストたちは自由ではなかった。
こうして、この5年間に、現地入りしたほんの一部の勇敢なレポーターや大学教員たちを除いて、「チュニジアの驚異的な経済発展」の謎めいた裏側を伝える人々はごく僅かであった。2006年、長年の仕事の成果として、チュニジア人ジャーナリストのカメル・リビディが、『ル・モンド・ディプロマティーク』紙において、チュニジアの地獄への長い下り坂を暴露した。
しかしながら、2008年にガフサで起こった暴動や、フランスの専門誌のジャーナリストの訴訟問題が、フランスから発信されていたらどうだったであろう。「大通りから3km圏内にある村落シディ・ブジドはあまりにひどい場所で、人々は毎朝起きるたびに死にたくなる」と、ベン・ブリック(訳注:チュニジアのジャーナリスト、反体制活動家)でさえそう書いていた。
12月17日に起こった、モハメド・ブアジジの絶望的な行動は爆発をもたらした。当時、AFP通信とAP通信からの緊急情報が、フランスの報道機関のほぼ唯一の情報源であった。チュニジア中部で実際に起っていた出来事から、私たちが知っているのはほんの僅かなことだけであった。
従って、知るためにはそこへいかなければならない。12月の終わり、教員や弁護士、ジャーナリストからなる、反体制派のリーダーたちに会いに行った。1月6日、シディ・ブジドから数キロ離れたケルアンで、私は大統領の警察に荒々しく呼び止められた。
その時まで、ベン=アリー当局は、私とフランスのメディアが扱い始めていたルポルタージュとのつながりを確認できていなかった。私は、ブルギバ通りで通行人にインタビューする以上の事をし、厳しい監視下にあった活動家たちと接触していた際、人目につかぬよう行動していた。
私はまさしく現地の人のような格好をした。リベットキャップをかぶり、徒歩で移動し、チュニスで最もランクの低いホテルに泊まり、リビアへ向かう一時滞在中のたくさんのアルジェリア人と接触した。そこでは、警察は私を全く監視しなかった。非常に厳しい彼らは、翌日すぐに出国するよう迫った。それからすぐに、迅速な対応で、フランス大使館の担当者たちは帰国の手筈を整えてくれた。
『ル・ジュルナル・デュ・ディマンシュ』紙の特派員、カミーユ・エステーヴが、シディ・ブジドに行った最初のフランス人ジャーナリストとなった。2010年1月10日頃のことである。
1週間後、ベン=アリーの逃亡によって対外情報庁がなくなり、「ジャスミン革命」を追いかけに、大勢のジャーナリストたちが到着した。
(ジャン=セバスチャン・モラ)
PR
COMMENT