Petit guide de la Françafrique
幼少期をフランス海外県アンティル(訳注:詳しくは、グアドループ。また、正式に海外県となるのは1946年。)で過ごしたビジネスマンのフォカールは、1944年、それ以前に築かれた重要なコネクションを買われ、シャルル・ド・ゴールに仕える最初の副高官のひとりとなる。そして、彼はすぐさまド・ゴール主義の裏側で最も重要な仕事を担当するようになる。つまりそれは、(過去に事実上率いていた)諜報機関(訳注:第二次大戦中、フォカールは1940年にド・ゴールがロンドンで設立した政府組織「自由フランス」の情報局、「情報・行動中央局」(BCRA)に所属していた。その後、BCRAは1944年11月に「研究・調査局」(DGER)に改称され、幾度かの再編を経て、現在の「対外治安総局」(DGSE)となる。)との連携、自身の組織網および戦闘的な活動家グループ(凶悪犯罪者とつながりのある、攻撃的な警備隊)の編成、(とりわけ、アフリカの植民地を通した)裏資金調達である。
したがって、1956年から1962年にかけてのアフリカ諸国の独立期に、彼がフランサフリックというシステムを着想し、それを指揮することに精力を注いだのは、まったくもって必然的であった。フランサフリックとは、独立を秘密裏に台無しにすることを目的としたからくりである。なぜ秘密裏かといえば、それが非合法的だからである。ド・ゴールは表向きには独立を認めたものの、(政治的、経済的、財政的、軍事的etc...)依存状態を維持させるための仕事をフォカールに任せていた。同時に、フォカールはド・ゴール派のRPF(訳注:「フランス国民連合」。1947年、ド・ゴールが第4共和制に反対して設立した政党)を、次に、UDR(訳注:「共和国民主連合」。1971年に設立された、ド・ゴール派を継承する政党。)を組織する。また、1959年に創設された悪名高いSAC(訳注:「民間行動隊」。ド・ゴール派の民間治安部隊。)の新兵養成所となる、RPF警備隊も監督していた。同じ時期、輸出入商社サフィエックス(Safiex)の貿易活動も支援している。
多くの旧植民地との間にフランサフリックというシステムを設置するのは、とても大がかりな任務である。「友人」の指導者たちを権力の座に就かせるには、常に代償が伴う。それは、カメルーンでのバミレケ族への虐殺行為にはじまり、アフリカの偉大な指導者たちや、独裁者に反旗をひるがえした者たちの暗殺へと続いていき、アフリカの人びとにとっての大きな希望の光が消されていった。
ド・ゴールの「ムッシュー・アフリカ」(訳注:フォカールの別称)を務めた彼は、続くポンピドゥーの下でも引き続きその役割を果たす。1974年、当時の首相シラクが、フォカールが徹底的に軽蔑していたパスクワと徒党を組んでいる間は、大統領ジスカール・デスタンは彼を遠ざけていた。しかし、最終的にシラクはこの逸材を復帰させることになる。1986年の保革共存政権で再び首相を務めた際、シラクは彼を顧問に据え、フォカール主義の「継承者」となる。1997年に没するまで、フォカールは助言者でい続けたのだった(訳注:1995年にシラクからレジオン・ドヌール勲章を授与される)。