Billets d'Afrique et d'ailleurs 214号(2012年6月)
ジュール・フェリーを引き合いに出した新大統領は(訳注:
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、国家による植民地化とレイシズムを、私たちの歴史における些細な出来事とみなしている。下院議会の演壇に立ったフェリーが声高に言った、「はっきりと、真実を言わなければなりません! 包み隠さずに、優れた人種は劣った人種を支配する権利があると言わなければなりません。」という言葉が、「人類が経験した数々の甚大な殺戮、つまるところ、ヨーロッパの『野蛮化』」(エメ・セゼール)の時代を開いたということを、彼は理解していないようだ。
人種間の不平等というこの非宗教的な教理は、義務教育を通じて下層階級のフランス人全員に押しつけられ、最悪の事態を受け入れさせる下地をつくった。フェリーは植民地拡大政策を決定的に正当化する。「優れた人種には権利があるということを、繰り返し述べたいと思います。なぜなら、そこには義務があるからです。優れた人種は、劣った人種を文明化する義務があります」。これが、道徳的優越によって神聖化された最も乱暴な干渉であり、文明化に逆らう全ての人びとを皆殺しにする、専横的なヒューマニズムというものである。最近おこなわれた、コートジボワールとリビアでの爆撃による民主化は、この原則が適用された最新の例である。
あるいは、オランドは事実を踏まえた上で、植民地拡大の推進者たちと同じ道に足を踏み入れたのかもしれない。いずれにしても、人民戦線にはじまり、ギー・モレ(訳注:社会党所属。1956年1月から1957年6月まで首相を務めた。)政権を経て、ルワンダでの大虐殺にいたるまで、左派政権が常に帝国主義的な企てに積極的だったことは事実である。わたしたちは、アルジェリアからルワンダまで、ミッテランの偉業の数かずを知っている。二期目の終わりに彼はこう述べた。「公式に認めます。フランスはその進路を維持し、アフリカでの活動が縮小することのないようにしなければなりません。アフリカにおけるプレゼンスを放棄すれば、フランスはもはや完全にフランスではなくなるでしょう」。この発言は、フェリーの次の言葉にこたえるものである。「フランスは単に自由な国というのではなく、国際情勢への影響力を持ち、その慣習や言語、軍隊、国旗、特性を、可能な全ての場所で広めながら、大国となることを望んでいます」。
歴史家たちは、オランド選出に対する抗議を時代遅れとみなした。最善の選択だと。1885年、多くの下院議員たち――右派よりも左派のほうが多かった――が、「1789年革命と1848年革命で打ち立てられた原則の放棄」「奴隷制と黒人奴隷売買の正当化」といった、植民地化のための人種の理論化を当然のものとして捉えていた。ジョルジュ・クレマンソー(訳注:[1841-1929]政治家、ジャーナリスト)は次のように反駁している。
「あなた方が蛮族と呼び、暴力性を見出している人びとに対する支配の歴史をご覧なさい。あらゆる残忍な犯罪、暴虐、大量に流される血、征服者によって抑圧され、虐げられた人びとを! それがあなた方の文明化の歴史です![…]どれほどのむごたらしく恐ろしい殺人が、正義と文明化の名の下で犯されたでしょうか。」
時代遅れなのは、国民を代表する大統領という立場から、国家によるレイシズムの発案者を称賛していることである。その中には、フェリーに劣っていると見なされた人びとの子孫も含まれている。劣っている「人種」に出自を持つか持たないかに関係なく、例えば、教育現場でもこうした賛辞を押しつけられ、それを誰かが拒否するようなことがあったらどうするというのだろうか?
最も有名な植民地拡大のロビイストに敬意を表することで、オランドが憚ることなく掲げた目標である、「学校を共和国の全ての子どもたちの統合の場にする」どころか、一方ではカトリック教育に莫大な補助金を出しながら、ライシテ(政教分離)の名の下で、スカーフ着用を口実に、公立学校から慎み深い若い女性が排除されることが懸念される。海外同様にここフランス本土でも、劣った人びとを「文明化する」ことが相変わらず続けられている。
(オディール・トブネル)
巡洋艦「ジュール・フェリー」号
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