フランス=アフリカ関係/フランコフォニーを考えるためのブログ
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Billets d'Afrique et d'ailleurs 200号(2011年3月)
やれやれ! 祖国は救われた。アラン・ジュペ(※1)はこれから、外交上の失敗を犯したフランスのイメージの立て直しに取りかかることができる。多くの政治解説者たちが、ジャック・シラクの下で首相を務め(※2)、炎に包まれた外務省の火消し役だったジュペの政治的影響力に安心していた。即時的に行われた内閣改造の裏側を見ている人々にとっては、喜んでいる理由などない。
というのも、エドゥアール・バラデュール(※3)のコアビタシオン政権(※4)で外相を務めたアラン・ジュペは、フランスが1994年のルワンダでの大虐殺に加担していた時に最前線に立っていた。
歴史学者のジェラール・プリュニエによれば、ミシェル・ルサン(当時)が大臣を務める協力相のDGSE(対外治安総局)顧問だったフィリップ・ジャンヌは、フランスが虐殺者たちに武器を提供していたことを認めた。国境なき医師団との会談の中で、アラン・ジュペは、虐殺が1994年4月7日に始まっていたにもかかわらず、大統領府がその後も非公式に武器を引き渡せる可能性を示唆しながら、5月の終わりに武器提供の中止を宣言した。1994年4月27日に、ツチ族に対して進行中だった虐殺の中心人物である、2人のフツ族過激派の悪人たちの訪問を受けていたのもアラン・ジュペだった。これは、ベン=アリー当局に治安維持のためのフランス式ノウハウを導入するという、ミシェル・アリヨ=マリー(※5)の提案よりもずっとスキャンダルだということが分かる。しかし、アリヨ=マリーもそうだったように、ジュペはあらゆる責任に反論する頑迷な人間である。事実、前々任者のベルナール・クシュネル(※6)の声明に対する次の返答が思い出される。ルワンダ当局との接触が再開された頃(※7)、彼は「フランスはルワンダで“政策上の失敗”を犯したのではないかと言われています。大間違いです。どんな間違いがあったのでしょうか? 説明しなければなりません!」「しかし、別の歴史を書き直すことは許されないでしょう」。
訳注
※1アラン・ジュペ:外相(2011年2月27日-)
※2期間:1995年5月18日-1997年6月3日
※3エドゥアール・バラデュール(1929-):首相在任期間は1993年3月29日-1995年5月10日
※4コアビタシオン政権:保革共存政権。所属勢力が異なる首相と大統領が政権内に共存する状態を指す。共和国連合(保守右派)所属のバラデュールは、社会党所属の大統領ミッテランの下で首相を務めた。
※5ミシェル・アリヨ=マリー:ジュペの前任者(2010年11月14日-2011年2月27日)。
※6ベルナール・クシュネル:アリヨ=マリーの前任者(2007年5月17日-2010年11月13日)。
※7 2009年11月、ルワンダはフランスとの国交を再開した(2006年11月に断絶)。翌年1月、クシュネルはルワンダを訪問し、フランス=ルワンダ間の関係改善をスタートさせた、サルコジは2月に訪れ、「政策上の失敗」を公式に認めた。
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