Billets d'Afrique et d'ailleurs 202号(2011年5月)
コートジボワールの歴史の中で、2000年から2011年という期間は、未来のアフリカの政治学者たちにとって教訓的な事例となるだろう。1999年末に(訳注:コナン・)ベディエ(訳注:第2代大統領)を追い払った(訳注:フランスに亡命)クーデターを起こした張本人である(訳注:ロベール・)ゲイ将軍を倒し、2000年、ローラン・バグボが権力の座に就く。2002年、強大な軍事力による反乱が勃発する。
その当時バグボは不在だったが、彼の内務大臣、エミール・ボガ・ドゥドゥが暗殺される。コートジボワール軍はアビジャンで抗戦し、反逆者を追い出した。危険な状態にあったアラサン・ワタラは、ポール=ブエ基地に駐留するフランス軍によって密かに脱出させられた。国の北部全体が、法治国家に代わって、武力で統治する様々な首長たちの手に渡ることになる。
2003年、フランスはマルクシ和平協定によって、反政府勢力の人間を強制的にコートジボワール政府の要職に就かせたが、無駄に終わった。既に2002年から、フランスはユニコーン作戦(訳注:フランス軍による、在留外国人の撤退を支援する作戦。)を展開している。2004年、国連はUNOCI(国連コートジボワール活動)という派遣部隊を創設する。2004年、コートジボワール軍が国の再統一を試みるも、謎に包まれたブアケ事件(訳注:北部の都市、ブアケ市内の酒場で兵士が学生に発砲した事件。ブアケは反政府勢力の拠点。)によって頓挫する。この事件について、ミシェル・アリヨ=マリー(当時の国防大臣)は後に、いかなる情報公開も頑なに拒否することになる。しかしながら、アビジャンのデモ参加者への発砲は、フランス軍に襲撃させるための口実である。後に、繰り返される抑圧と交渉によって、ローラン・バグボは反政府運動の指導者であったギヨーム・ソロ(訳注:2011年4月11日より国防相を兼任)を2007年に首相に任命することになる。ワガドゥグ合意(訳注:2007年3月4日、ブルキナファソ大統領コンパオレの仲介の下、バグボとソロとの間で締結された。)は大統領選挙の開催を可能にしたと見なされているが、彼らの法律が、紛争の指導者たちによって武力で統制され続けているコートジボワール北部に適用されることは決してないだろう。
2010年11月にようやく大統領選が行われるが、すぐに選挙の実施状況と結果に関して対立が起こった。この対立は、ローラン・バグボとの闘いに乗り出すフランス、国連、アメリカによって解消される。かつての反政府勢力の指導者であり、2004年にソロに地位を奪われた、(IBと呼ばれる)イブラヒム・クリバリの命令による「見えないコマンド」(訳注:ゲリラ部隊)が、アビジャンのアボド地区に立てこもり、バグボに忠実な防衛隊を執拗に攻撃する間、国連は4ヶ月間で数百人に達すると思われる犠牲者の数を数えるだけだった。アフリカの人びとに介入させることが不可能となったフランスは、「住民への攻撃に使用される重火器の破壊」を許可する国連安全保障理事会の承認を得て、4月6日、戦車とヘリコプターによって、以前の反乱でコートジボワール共和国軍(訳注:ワタラ陣営の軍隊)と交戦したことのある、バグボが住む大統領公邸を攻撃する。
4月以降、コートジボワール危機は頂点に達している。コートジボワール軍(訳注:バグボ勢力の軍隊)が各地で撤退し、戦闘を中止している一方で、コートジボワール共和国軍の指揮官であるソロとワタラに仕える軍規の乱れた兵士たちは、国の西部地域において、民族主義的なやり方で市民の虐殺を行い、アビジャンでは、バグボの支持者、あるいはそう見なされた者たちを次々と処刑している。生き残った抵抗勢力を匿っていると見なされた地区には重火器が使用されている。国連は何もせず、数えきれない犠牲者に目をつむっている。彼らのしていることは、その数をおよそ1000人と推定することだけである。ローラン・バグボと彼の側近たちは、屈辱的な扱いを受けた後、地域の指揮官たちの支配下にある、北部の町に監禁されている。ローラン・バグボの所属政党FPI(イボワール人民戦線)の機関紙である、『ノートル・ヴォワ』(我々の道)の支局が徹底的に略奪され、完全に焼き払われた事件が明らかにされることのないまま、新聞各紙が再刊されている。
最新の情報では、ソロはライバルであるイブラヒム・クリバリをとうとう処分することに成功した(訳注:4月27日夕方、コートジボワール共和国軍に殺害された)。全てが順調に進んでいる。もう終わりにしよう。
(オディール・トブネル)
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