AREVA en Afrique - La face cachée du nucléaire français(2012年2月)
フランス統治下の独立
1960年のアフリカ諸国独立の際、ニジェールやガボンといった旧植民地とフランスとのあいだで締結された防衛協定は、フランスの国益を保護するための、原料や戦略資源の
「優先的確保」とよばれる条項を含んでいた。
アレヴァのフランサフリック組織網
コジェマ社に続いてアレヴァ社も、公式・非公式を問わず、フランサフリックの組織網を利用し続けている。
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元外交官たちが、鉱山会社のトップに立っている。ジャック・フォカールの臣下で、ガボン大使だったモーリス・ドロネーは、1979年から1989年までコミュフ社(訳注:ガボンのウラン鉱山会社)の社長を務めた。また、大統領府アフリカ担当室の古参であったドミニク・パンは――当時、後にアレヴァ社のCEOとなるアンヌ・ローヴェルジョンがフランソワ・ミッテランの下で働いていた(訳注:ローヴェルジョンは、ミッテラン政権で国際経済・貿易担当特別補佐官を務めた)――、2007年にニアメ(訳注:ニジェールの首都)でウラン価格の改定交渉がおこなわれた際、アレヴァ・ニジェール支社の代表となった。
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常連の仲介人たちが、ヨーロッパから派遣されている。パトリック・バルカニー(訳注:UMP所属。オー=ド=セーヌ県ルヴァロワ=ペレ市長)は、とりわけ中央アフリカで密使として暗躍している。ベルギーの企業家ジョルジュ・フォレストは、コンゴ民主共和国で「カタンガ総督」(訳注:「カタンガ」はシャバ州の旧称)の異名をとる。
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元軍人や秘密警察たちも派遣されている。2007年、ウラン鉱山の治安維持をおこなう民間企業エペ社からニジェールに派遣され、ニアメのフランス大使館で防衛官を務めるジル・ドナミュールは元陸軍大佐である。
1974年、ニアメ:原子力のためのクーデター
1967年からフランスは、ニジェールのウランを破格の安値で購入し続けていた。1973年に石油危機が起こり、原子力政策を加速させる方針が決まると、アマニ・ディオリ大統領(訳注:ニジェール初代大統領)はフランスに対し、
ウラン価格を引き上げるように要求した。歴史家のガブリエル・ヘクトは、「ニジェールがフランスの巨大な原子力産業に貢献できる力を持っていると考えていたディオリは、その代わりに、フランスがニジェールの開発援助に莫大な資金を投入すべきだと主張した」と指摘している。そして、フランスとニジェールとの関係は緊張する。1974年4月14日の夜から翌15日にかけ、アマニ・ディオリはセイニ・クンチェ(訳注:当時の国軍総参謀長)が起こした軍事クーデターの犠牲者となる(訳注:ディオリは6年間投獄され、その後も7年間自宅軟禁におかれた)。実行前、
このクーデターの首謀者たちは、間違いなくフランスからの支援を受けていた。というのも、二国間の防衛協定があるにもかかわらず、クーデター開始前から軍事介入拒否が発表されるまで、現地のフランス軍は反乱軍の動きを黙って見ているだけだった。
2009年~2010年:ニジェールでの権益保護
2007年、ニジェール大統領ママドゥ・タンジャは、採掘権を自由化した。こうして、投資家間の競争が、とりわけアレヴァ社が狙っていた国内最大のイムラレン鉱山をめぐって激化する。アレヴァ社がこの鉱山を手に入れるためには、高騰したウラン価格を受け入れなければならなくなったのである。
2009年3月、憲法の定めに逆らって三期目を務めようとしていたママドゥ・タンジャに対する異議申立てがニジェール国内で高まる中、ニコラ・サルコジはイムラレン鉱山の契約に「秘密裏にサインする」ために、アレヴァ社長とともにニアメを訪問する。これが契機となったのは明らかであろう。フランスはその国益のために、ニジェールの人びとの権利を踏みにじることで、タンジャの再選を合憲的なものと認める。しかし、ニジェールとの外交関係は長続きしなかった。
2010年2月18日、軍事クーデターによってタンジャは失脚する。その直後、アラン・ジョワイヤンデ協力担当大臣は、「アレヴァ社がニジェール政府および現地の人びとと築いてきた、長きにわたる協力関係が悪化することは絶対に有り得」ないと述べた。フランス政府は、大統領に対するクーデターが準備されていたことをはっきりと察知していたにもかかわらず、軍人たちの行動を止めようとしなかったのだった。なぜなら、ママドゥ・タンジャが、ニジェールのウラン鉱山の採掘権を、フランスの競争相手である中国やイランにまで広げようとした最初の人物だったからである。
(つづく)