Billets d'Afrique et d'ailleurs 199号(2011年2月)
社会政治的異議申し立ての広がりを評価できないフランスは、そのシニスム的態度で再び注目を浴びている
ベン・アリー体制の安全を保障しようとするミシェル・アリヨ=マリー外務大臣の意欲は、政治的失策ではなく、チュニジアを支配するフランスの政策である。さらに、彼女は公式文書に目を通していたために、ラジオ取材によって罠にかけられることもなかった。
彼女がサルコジの安全保障政策の漂流に十分に慣れていたことも思い出そう。テレビ監視装置の熱心な支持者であり、予審判事の死の首謀者である外務大臣は、タルナック事件の際の内務大臣であった。また最近では、自らの選挙地盤において、バスクの活動家であるオーロール・マルタンに対して出されたEU共通逮捕状に全く以って無関心なままであった。
チュニジアでは、ザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー大統領がフランス政府からの厚情を常に享受していた。とりわけそれは、その国の経済の「驚異的発展」をいつも口にしていたジャック・シラクによるものである。
マス・メディアがベン=アリー体制の本質を暴く時
こうして、フランスの外交政策の方針はベン=アリーの遭難まで維持された。あちらの側では、大人しかった一般のジャーナリストたちが、崩壊しかけたベン=アリー体制の暴力と専制を暴きつつあった。
彼らがミシェル・アリヨ=マリーの言葉を無価値であると判断すれば、これまでの長く抑圧された期間の彼らの徹底的な沈黙は、もはや非難されるべきものではないのではないだろうか? 無料日刊紙『20 minutes』のジャーナリスト、ベレニス・デュビュックは「ジャスミン革命」というタームを1月11日に初めて用いた人物の一人である。というのも、1987年にベン=アリー自身が、自らのクーデターを名指すためにこの表現を使ったのだ。ジャーナリストらしい略語というか、価値のない情報の記号ではないだろうか?
1週間前から、チュニジアでは同じようなテーマが「取り上げ」られ、特派員が動き回り、どのメディアも元政治囚をインタビューし、民主化への移行という「暗号解読」と、フランスまたはスイスにあるとみられるトラベルシ一族の財産に関する「徹底的な」調査がなされている。しかしながら、何年もの間、亡命した活動家たちは絶望的になりながらも、パリの大多数の新聞・出版社による事実の否認とぶつかってきた。このところ、メディアは反体制派のモンセフ・マルズキが当時はほとんど無名であり、2009年にbastamag.netというサイトに一件のインタビューがあるだけだ、と口にしてばかりいる。
チュニジア人たちの仲間
パリによるベン=アリー体制の絶対的な支持の理由をどのように説明できるだろうか? それは、彼の側近たちのマフィア的ともいえる行動が、地中海南部を大きく飛び出しているだけに難しいものである。
2006年、権威を失った大統領の親類である2人の甥、トラベルシ兄弟がボニファシオ(訳注:コルシカ島南端の町)でヨットを盗んだとして起訴された。そのヨットは、ジャック・シラクに近しい人物であり、ラザード・フレール銀行元総裁のブルーノ・ロジェの所有物であった。船舶保険会社の調査は、外装のかえられたヨットをチュニス北部の高級住宅地シディ・ブ・サイドの港で発見し、秘密裏に持ち主に返却した。
私たちは、人権の擁護よりもフランスの貿易および戦略的利害が優先されることを知っている。
その上、チュニジアでは、警察による抑圧と基本的人権の軽視が経済システムと緊密に結びついている。「チュニジア人たちの仲間」と名付けられた非常に有力なフランス人グループが、チュニジアの大統領に対し、いつまでも変わらぬ忠誠を示し続けている。彼らの中には、ベナンの体制に対する「独裁」という呼称に異議を唱えた、フレデリック・ミッテラン文化相がいる。チュニジア出身の数少ない有名人であるベルトラン・ドラノエや貿易担当大臣のピエール・ルルーシュは、長い間チュニジアの不安定な見通しを肯定的に宣伝してきた。
「外国の政府について評価を下す前に、現地の状況をしっかり知るべきだ」。ブルーノ・ル・メール農相はそう注意を促した。実際のところ、わずかなフランス人たちだけが、ベン=アリー大統領から受ける一連の恩恵を享受すること、つまり知ることができた。チュニジアが「素晴らしいやり方」でミシェル・アリヨ=マリーをもてなし続けていた間、彼女は身のまわりの安全を守ることしか考えていなかった。
というのも、昨年の夏、彼女はハマメットにあるフェニシア・ホテルの大統領専用スイートルームで数日を過ごした。12月の終わり、人々による異議申し立てが形をなしていたころ、彼女は北西部タバルカの別荘で新年を祝っていた。おそらく彼女は、チュニジアの「現実」を十分に高く評価している、同胞のドミニック・ボーディス議員と会っていただろう。
ベン=アリーのもとでのフランスのおいしい金儲け
当然、ベン=アリー体制下に不可欠な労働法は、現地の数千あまりのフランス企業の都合の良いようにできているようだ。
2億8千万ユーロという記録を持つ、最高の外国人投資家であるフランスは、繊維部門やエレクトロニクス部門(ヴァレオ、フォーレシア、サジェム、EADSなど)、コール・センター業務(テレパフォーマンス)において、チュニジアで特に目覚しく活動している。
その他の例を挙げよう。ベン=アリー大統領は、ベン・アルス県にある約3,500人を雇用するサジェム社でいつも大変もてなされていた。2009年、フランス人グループの工場・物流監督のエリック・フォーブリは、モハメッド・ガンヌーシ首相から、品質向上に対する政府最優秀賞を受け取った。国が資格のある若者たちの失業に苦しんでいるにもかかわらず、生み出された雇用がほんの僅かであっても大したことではないのだ。
フランス=チュニジア商工会議所は、2国間のビジネスを支える柱である。フランス=チュニジア友好協会会長のクリスチャン・ドゥ・ボワシューは、首相府の顧問である。イスラム文化研究所の新しい代表であるアキム・エル=カルイは、アラブ企業経営者協会の一員であると同時に、ジャン=ピエール・ラファランとチュニジア商工会議所会頭エディ・ジラーニの側近である。また、ジラーニの娘のひとり、ゾラはベラセン・トラベルシの妻である。
またとりわけ、高級ホテル業の全てを仕切っているオスニ・ジェマリなどは、ドゥブレ一家やギヨーム・サルコジと親密な関係を維持している。「第2のチュニジア大使」の異名をとるジェマリは、エルヴェ・ノヴェリ観光担当相から、2008年にレジオンドヌール勲章のシュヴァリエを授与された。
ジェマリは「フランス領チュニジア」の中心人物と見なされている。元ジャーナリストである彼は、ラガルデール・グループで編集長を務めるクリスチャン・ドゥ・ヴィルヌーヴ、『ヌーヴェル・オプセルバトゥール』誌のジャン・ダニエル、元TF1社長で『フィガロ』紙の現編集長であるエティエンヌ・ムジョットらと密接につながっている。
時代遅れの外交
繰り返しになるが、フランスの外交政策は人権の軽視という点で際立っている。しかし、その無能力ぶりはチュニジア人たちにも及んでいる。というのも、社会的異議申し立ての広がりを評価することのできないパリは、最もシニカルな現実政策の中でも、何ら新しい展開を示さなかったのである。
近い将来、民主的なチュニジアは誰と特権的パートナーシップを結ぼうとするだろうか? ベン=アリー的な抑圧体制とつながろうとする国だろうか? それとも、民主的開放を喜ぶ国だろうか?
ベン=アリーの失墜から2週間後、ニコラ・サルコジはチュニジアフランス大使のピエール・メナを解任し、それまでバグダッドにいた、サルコジ主義のスター外交官と見なされ、ビジネス外交を展開するボリス・ボワロンを後任においた。
この間、大統領府は見通しのない状況の中で常に説明を探し求めている。『カナール・アンシェネ』紙によれば、アラン・ジュペとミシェル・アリヨ=マリーの反応は、フランスの外交官たちに対して辛辣である。「我々は絶えず深い霧の中にいた」と彼らは述べている。それは、ベン=アリーの宮殿にあるハマムの霧のことではないだろうか? 何故なら、ベン=アリーの衰退については数多くの分析家(※1)たちが述べており、現地では、2年以上前から人々の間で変化が著しかったのだ。それはとりわけ、人権活動家やジャーナリスト、独立した弁護士たちの強固なネットワークの中にあった。
数週間前、ウィキリークスがチュニジアの米国大使館の外交電報を暴露した。それは、2007年8月14日付のもので、2005年から2009年までのフランス大使セルジュ・デガレが、「チュニジアは独裁ではなく、指導者たちは人々に常に耳を傾けている」と述べていた。
その翌年、ガフサにある鉱床での社会運動が、ベン=アリー体制による血まみれの鎮圧という結果で終わった。当時、チュニジアを訪問したニコラ・サルコジは、自由権が保障された空間の発展を讃えたために、人々の憤激を買った。
(ジャン=セバスチャン・モラ)
※1 2007年以降その存在感が薄くなった外務省の報告書や、アメリカの外交官、また政治学者ベアトリス・イブーらフランスの研究者たちによって述べられている。イブーの著作に『チュニジアにおける抑圧の経済学』(La découverte, 2006)、また論文に「カメル・リビディ:チュニジアの地獄への長い下り坂」(ル・モンド・ディプロマティーク、2006)がある。