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フランサフリック情報ネットワーク

フランス=アフリカ関係/フランコフォニーを考えるためのブログ

   

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『フランスサフリックからマフィアフリックへ』②

De la Françafrique à la Mafiafrique
(2004年10月1日、フランソワ=グザヴィエ・ヴェルシャヴ著)

 では、フランサフリックから始めたいと思いますが、二、三の前置きがあります。お話しするいくつかの事柄は、皆さんには信じられないものに見えるでしょう。けれどそれらは事実です。私たちは10年間それらを見、信じてきました。そこには視点の問題があります。私たちが普段見ることのない事柄です。実に単純なことですが、それはフランサフリックが専らエリゼ宮(大統領府)の中にだけにあるからです。つまりそれが、多くの情報操作や情報欠如がある、ほぼ軍事的な領域にあるということです。これらの事柄を細かく見始めると、アフリカでのフランスの役割を伝えるメディアのやり方と、そこで現実に為されていることとの間に見える違いは驚くべきものです。それは信じられないものですが真実です。これらの問題に関して、アフリカ大陸全土を通じたフランサフリックについて語った『黒い沈黙(Noir silence)』(1500の注釈と約1万の事件から成る600ページの著)を刊行した際、私はアフリカの3人の独裁者、即ちチャドのデビィ、コンゴのサスー、ガボンのボンゴから、国家元首に対する侮辱を理由に告訴されました。国家元首に対する犯罪というのは、実際のところ昔で言う大逆罪です。つまり、前もって有罪を宣告されたようなものです。かつては、国家元首に対する侮辱が裁かれる場合、どんな人も絶対に有罪を逃れられませんでした。ところが、私たちは一審と二審でそれに勝利し、彼らは上告を諦めます。3人の独裁者の犠牲者たちがもたらした証言全てが、有罪判決を不可能にしたのです。そして、法廷は私が書いた事柄は根拠ある調査の結果であったと言明しました。
 
 二つ目の前置きは、フランサフリックと私が呼ぶものの中で、とりわけフランスの責任についてお話します。何故なら、それはあまり知られていません。アフリカにおけるフランスの役割がもたらす非常に多くの利益などと言いますが、これからお話するように、フランサフリックは明らかにフランス人とアフリカ人によるものです。それはフランス人とアフリカ人との協同組織です。もちろん、これから説明する統治・略奪システムの中には、重要な役割を演じるアフリカ人たちが存在します。皆さんはアフリカ人の責任者たちの多くの悪事について耳にする機会があり、既によくご存知でしょう。

 さて、そのフランサフリックの歴史とは何でしょうか? それはどこから始まるのでしょう? そして、フランス人たちはそこにどうやって転がり込んだのでしょうか? 私はアフリカと西洋、フランスの全歴史を繰り返したり、3・4世紀からの奴隷制や、19世紀以来の植民地主義を想起したりするつもりはありません。60年だけ遡りましょう。第二次世界大戦後、自由のための人々の行動、即ち脱植民地化と呼ばれる現象が起こります。それは、悲劇的な抵抗運動の試みによって、インドシナ戦争やアルジェリア戦争、次いでアメリカがフランスの後を引き継いだヴェトナムでの戦争のように、次から次へと行われました。さて、こうした歴史的変動は、1958年のアルジェリア戦争の最中政権に復帰し、サハラ砂漠南部のフランス植民地に対して公式に独立を認めたド・ゴールを退陣に追い込みます。それはつまり、国際的な新しい合法性が宣言されたということです。同時に、ド・ゴールは彼の右腕、つまり黒幕のジャック・フォカール――ド・ゴール派、闇資金提供者、秘密情報機関の代表――に、それとはちょうど反対のこと、即ち従属関係の維持を命じます。これがフランサフリックの出発点です。つまり、例えば皆さんが一方では独立という、また他方では従属関係を維持したいと望むような、新しい国際的合法性を持とうと思っても、それは違法です。従って、皆さんは隠された、恥ずべき、秘密裏の方策でしか、それを作ることができません。フランサフリック、それは氷山のようなものです。皆さんは海面に頭を出した氷山の天辺を見ています。それはアフリカの友好国としてのフランス、人権の専門家としてのフランス、などといったものです。しかし、実際そこには闇に沈んだ90%の関係、即ちアフリカにおける、アフリカの同盟国を伴った、フランスによる支配維持のメカニズムの集合があります。この事は後に詳しく説明します。
 
 どうして、フランスからの独立のためにアフリカ人たちの独立を犠牲にするド・ゴールのこうした選択があるのでしょうか? そこには4つの理由があります。一つ目は、お得意の顧客国を従えるフランスと国連とのつながりです。二つ目は、石油やウランといった戦略的な一次資源、あるいは森林やカカオといった実入りの良い一次資源へのアクセスです。三つ目は、フランスの政治生命の中でかつてない程の規模の出資・融資があります。それは、公的開発援助や一次資源の販売における搾取を通じて、まず初めにド・ゴール主義者たちから、次いで政府と呼ばれる党派の集合によって為されています。そして四つ目は、少し後になってから突き止めたことですが、同じくとても今日的なものです。即ち、ソ連に対抗する反共産主義圏であるフランス語圏アフリカを維持するための、冷戦におけるアメリカの下請けとしてのフランスの役割です。従って、この四つの理由のために、独立を否認するシステムがそこに置かれます。そして、フランスの人々が巻き込まれているのはその点においてです。何故ならば、アルジェリア戦争終結の後、1962年に国民投票によって「過去の植民地化の歴史を、数世紀にわたる支配を、アフリカに対する軽蔑を忘れ、新たな時代を迎えたいか?」と問われた時、フランス人たちの80%がウイ(はい)に投票しました。それはつまり、「ウイ、私たちは卑劣な行為をしたが、それを終わらせなければならない。私たちは新たな時代を迎え、それらの国々を独立国として扱いたい」という意味です。ところが、これからお話するように、そこには新植民地システムだけでなく、新植民地主義の滑稽な模倣物がつくられました。
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『フランサフリックからマフィアフリックへ』①

De la Françafrique à la Mafiafrique
(2004年10月1日、フランソワ=グザヴィエ・ヴェルシャヴ著)

※ 以下の本文は、2003年12月3日、l’espace Renaudie d’Aubervilliers(セーヌ・サン・ドニ県)に於いて、200人の教員及び研修中の講師を前にして行われた講演会と討論会の模様を、ジュディット・シペルがテクストに起こしたものである。
 
 この講演のテーマをお話する前に、簡単に自己紹介をしたいと思います。私は1984年から、126人のノーベル賞作家たちの呼びかけによって創設された、「シュルヴィ(Surivie)」という組織で活動しています。彼らは、世界の飢餓や貧困と戦う問題は、単にチャリティーだけでなく、集団行動の問題であると述べました。ところで、集団行動とは一体何でしょうか? それは政治的な決断です。従って、私たちは10年間、フランス人たちの寛大さ、つまり発展・開発のための公的援助――それは当時の約400億フランに相当していました――を、人々を苦痛や餓え、極度の貧困から解放する為に本当に役立つ、少しは目的を持ったものにするために戦ってきました。私たちは混交するあらゆる派閥を越え、この公的援助を根底的に変えるための法律を廃案にした議員たちの4分の3をひとりひとり説得しました。しかし、この法律は多くの支持者がいたにも関わらず――そこには、自分たちが納めた税金がそれでも何かの役に立ってほしいと願う、1部・2部リーグ所属のフランス人サッカー選手も含まれていました――、決して議事日程に上ることはありませんでした。そして、私たちは少しずつ、この問題の中にその存在を認めていた贈収賄行為が、周辺的ではなく中心的なものであることに、そして、このフランス=アフリカ関係の後ろには、全く以って信じられない経済的犯罪があったことに気が付きました。
 
 1994年、フランスの支援によってルワンダでジェノサイド――恐ろしい状況の中で、3ヶ月の間に100万人が殺されました――が行われ、次いで国内南部で大量の人々を虐殺し、飢餓に導いたスーダン政権を支持するザイールで独裁者モブツが復権し、そのことによって私たちはこの経済的犯罪が、想像を絶するような政治的犯罪も兼ね備えていることに気が付きました。そして当時、全ての事実を前に――解決には10年は必要だと考えていました――、私たちは沈黙することができませんでした。なぜなら、医療の基本原則、つまりヒポクラテスの誓いは、治療を始める以前に「何よりもまず傷つけないこと」だからです。ところが、皆さんもご存知のように、私が「フランサフリック」と呼び、新植民地主義の馬鹿げた模倣であるところのこのフランス=アフリカ関係は、実に有害な政策です。
 
 従って、まずみなさんにお話するのは、独立以降のフランス=アフリカ関係、つまりこのフランサフリックなるものについてです。そして、その誕生や働きについて、いくつかの時期を飛ばしながら述べたいと思います。というのも、そうしなければ時間が余りにかかってしまうからです。全てを語ることは、私たちが刊行した夥しいページに及ぶ書物や資料を語ることを意味します。次に、私たちがフランサフリックからマフィアフリックへの移行期と呼ぶ、フランス=アフリカ関係の今日的進展についてお伝えします。それはつまり、この犯罪的関係の一種のグローバル化です。従って、私は財政的犯罪のグローバル化についてお話します。そして最後に、これまでの歴史の中で私たちが国家的規模で公共の利益を築き上げてきたという記憶をもっていること、また今日、そこには我々が望む空想的でない一つの解決策、即ち地球規模での公共の利益の構築しかないということを証明しながら、とてもポジティブな考察で講演を終えたいと思います。しかし実際には、現存する公共の利益を破壊することに時間を費やす財政的犯罪と、革新され拡大した公共の利益の構築の可能性との間には、実にはっきりとした対立関係があることをお伝えすることになるでしょう。私たちはすでにこのような構造の中にいますが、私たちが後者を作ることは可能です。講演の後、みなさんはきっといくつかの疑問を持たれることでしょう。

チュニジア:革命の経済的、社会的要因

Billets d'Afrique et d'ailleurs 199号(2011年2月)

チュニジアで先頃起こった政権崩壊は、何よりもまず民主的な革命である。しかしながら、革命の引き金となった社会的な蜂起という側面はまだ明らかにされていない
 
それは、革命プロセスの初めから(一時的な)終わりまでの真実である。変動のきっかけが、ディプロムを持った失業中の若者モハメド・ブアジジによる絶望に満ちた行為だったことを思い出そう。2010年12月17日、彼はシディ・ブジドの県庁前で焼身自殺した。
 
チュニジア中部に位置する人口約4万人のこの町は、海岸沿いの街の開発のために、政権によって計画的に見捨てられた地域のひとつである。失業率は46%で、若者の場合は60%にものぼる。(チュニジア最南端の地域とは異なり)砂漠地帯からは遠く離れており、豊かであるに違いない農地を抱えている。ところが、地域の80%の土地がベン=アリーを取り巻く一味によって独占されていたのだった。
 
何千人ものディプロムを持った失業中の若者
 
しばしば多くのディプロムを持ち、それにもかかわらず将来の確かな展望(「良い家柄」の出であるとか、良い「コネ」を持っているとか)のない失業者の若者たちの絶望は、シディ・ブジドや国内の他の地域を越えてゆく。
 
若きブアジジの犠牲によって巻き起こった火花は、国全体を巻き込むことができた。彼は(公式の商売でない「無許可の」物売りをしながら、苦労して生活費を稼いでいた際の)地元警察による嫌がらせに抵抗したかったのだ。
 
それが可能だったのは、数十万人のチュニジア人たち――青少年たち――が、彼が松脂油をかぶってから2週間後、死んだ不安定な若者の状況に自分たちの姿を見たからである。「ディプロムを持った失業者」という言葉は、マグレブの国々全体で知られている。モロッコでは、およそ10年前から組織的な「ディプロムを持った若者の運動」がある。
 
チュニジアでは、状況はとうとうより爆発的となった。何故なら、どんな合法的な抗議行動も、ベン=アリー体制の崩壊以前には不可能であり、異議申し立てにはいかなるはけ口も与えられていなかったからである。それでも、モロッコ、チュニジア、あるいはまた(少し異なるが)エジプトの3国には共通点がある。
 
チュニジア、モロッコ:無資格労働者たちのための経済
 
教育やディプロムのレヴェルが上がれば上がるほど、失業者のまま人生を終えるおそれがある。公式の統計――とりわけモロッコで顕著である――ですら認めているこうした現状は、奥深い経済構造に起因している。それは、一方で「低資格での」雇用が優勢に立っていることからも明らかである。それは、経営者がもはや低賃金で従順な労働者を(こぞって)見つけなくなったヨーロッパから分散している状況である。
 
チュニジアの場合、経済の大部分が下請けによって支えられており、ヨーロッパの市場による相当の「いたずら」に対する強い依存関係がある。例えば、チュニジアで車の絨毯を作らせている自動車工業の分野がそうである。車そのものは他の場所で作られているのにだ。
 
2008年にヨーロッパを襲った(とりわけ自動車産業における)財政金融危機で、チュニジアの下請けの状況はより一層悪化した。
 
このことは、(「安くつく」観光産業の23万人に次いで)20万人の雇用を抱える、2番目に大きい繊維産業についても同じことがいえる。特に、2005年にマルチファイバー協定(MFA)の期限が切れ、世界的な競争が激化して以来そうである。
 
他方では、経済の「選択肢」、より良い雇用、金利収入の独占があり、マフィア的な一族――ベン=アリーとその妻レイラの一家がそこにいる――によってつくられた状況(自動車輸入の独占)は、あらゆる就職口を閉ざすことに寄与している。
 
社会的要因が反乱のはじまりにあったとすれば、それは、その一時的な結末の際にもあったはずである。政治体制の変化(1999年11月17日から首相を務めたモハメッド・ガンヌーシをはじめ、何人かの人間は残っているが)は、多くの企業において――下層労働者たちによる――指導者たちの締め出しをもたらした。労働者たちは旧体制および蔓延する汚職のネットワークに巻き込まれていたのだった。
 
そのため、汚職で腐りきった――ヨーロッパの他の航空会社に倣って――チュニスエアの社長は、6階の事務所に閉じこもらなければならないと考えたのだった。給与の支払いを求める社員たちがいるために・・・。
 
権力への寄生
 
現在、チュニジアの地方のブルジョアたちの一部は、進行中の社会変動の中で儲けることが可能である。実際のところ、自国民たちに囚われた企業(とりわけ中小企業)は、状況をほぼ全く利用できておらず、支配するマフィアによって金を搾り取られていた。彼らは何ももたらすことなく、株の利益を取り立てるために経営参加を強く要求した。
 
反対に、国際的な大資本――とりわけフランスとヨーロッパの――は、権力を持ったマフィアとうまくやっていくことに成功した。つまり、彼ら大資本は最も地位の高い人物たちと直接商売していたのだった。
 
フランステレコム・オランジュグループの例を挙げよう。オランジュ社のチュニジア支店は49%がフランスの企業の所有であるが、51%はベン=アリーの娘の婿であるマルワン・マブルークの持ち物である。現在、彼は国外逃亡中で、フランスの多国籍企業がこの取るに足りない問題に直面している・・・。
 
とりわけヨーロッパの国際資本は、チュニジアに移転された彼らのコールセンター――フランスの電話オペレーターのコールの8%から12%がこの国経由である――が、ストライキや進行中の大変動により現在十分に機能していないために苦しんでいる。
 
(ベルナール・シュミッド)

チュニジア:フランスの外交政策の漂流と遭難

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Billets d'Afrique et d'ailleurs 199号(2011年2月)


社会政治的異議申し立ての広がりを評価できないフランスは、そのシニスム的態度で再び注目を浴びている 

ベン・アリー体制の安全を保障しようとするミシェル・アリヨ=マリー外務大臣の意欲は、政治的失策ではなく、チュニジアを支配するフランスの政策である。さらに、彼女は公式文書に目を通していたために、ラジオ取材によって罠にかけられることもなかった。
 
彼女がサルコジの安全保障政策の漂流に十分に慣れていたことも思い出そう。テレビ監視装置の熱心な支持者であり、予審判事の死の首謀者である外務大臣は、タルナック事件の際の内務大臣であった。また最近では、自らの選挙地盤において、バスクの活動家であるオーロール・マルタンに対して出されたEU共通逮捕状に全く以って無関心なままであった。
 
チュニジアでは、ザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー大統領がフランス政府からの厚情を常に享受していた。とりわけそれは、その国の経済の「驚異的発展」をいつも口にしていたジャック・シラクによるものである。
 
マス・メディアがベン=アリー体制の本質を暴く時
 
こうして、フランスの外交政策の方針はベン=アリーの遭難まで維持された。あちらの側では、大人しかった一般のジャーナリストたちが、崩壊しかけたベン=アリー体制の暴力と専制を暴きつつあった。
 
彼らがミシェル・アリヨ=マリーの言葉を無価値であると判断すれば、これまでの長く抑圧された期間の彼らの徹底的な沈黙は、もはや非難されるべきものではないのではないだろうか? 無料日刊紙『20 minutes』のジャーナリスト、ベレニス・デュビュックは「ジャスミン革命」というタームを1月11日に初めて用いた人物の一人である。というのも、1987年にベン=アリー自身が、自らのクーデターを名指すためにこの表現を使ったのだ。ジャーナリストらしい略語というか、価値のない情報の記号ではないだろうか?
 
1週間前から、チュニジアでは同じようなテーマが「取り上げ」られ、特派員が動き回り、どのメディアも元政治囚をインタビューし、民主化への移行という「暗号解読」と、フランスまたはスイスにあるとみられるトラベルシ一族の財産に関する「徹底的な」調査がなされている。しかしながら、何年もの間、亡命した活動家たちは絶望的になりながらも、パリの大多数の新聞・出版社による事実の否認とぶつかってきた。このところ、メディアは反体制派のモンセフ・マルズキが当時はほとんど無名であり、2009年にbastamag.netというサイトに一件のインタビューがあるだけだ、と口にしてばかりいる。
 
チュニジア人たちの仲間
 
パリによるベン=アリー体制の絶対的な支持の理由をどのように説明できるだろうか? それは、彼の側近たちのマフィア的ともいえる行動が、地中海南部を大きく飛び出しているだけに難しいものである。
 
2006年、権威を失った大統領の親類である2人の甥、トラベルシ兄弟がボニファシオ(訳注:コルシカ島南端の町)でヨットを盗んだとして起訴された。そのヨットは、ジャック・シラクに近しい人物であり、ラザード・フレール銀行元総裁のブルーノ・ロジェの所有物であった。船舶保険会社の調査は、外装のかえられたヨットをチュニス北部の高級住宅地シディ・ブ・サイドの港で発見し、秘密裏に持ち主に返却した。
 
私たちは、人権の擁護よりもフランスの貿易および戦略的利害が優先されることを知っている。
 
その上、チュニジアでは、警察による抑圧と基本的人権の軽視が経済システムと緊密に結びついている。「チュニジア人たちの仲間」と名付けられた非常に有力なフランス人グループが、チュニジアの大統領に対し、いつまでも変わらぬ忠誠を示し続けている。彼らの中には、ベナンの体制に対する「独裁」という呼称に異議を唱えた、フレデリック・ミッテラン文化相がいる。チュニジア出身の数少ない有名人であるベルトラン・ドラノエや貿易担当大臣のピエール・ルルーシュは、長い間チュニジアの不安定な見通しを肯定的に宣伝してきた。
 
「外国の政府について評価を下す前に、現地の状況をしっかり知るべきだ」。ブルーノ・ル・メール農相はそう注意を促した。実際のところ、わずかなフランス人たちだけが、ベン=アリー大統領から受ける一連の恩恵を享受すること、つまり知ることができた。チュニジアが「素晴らしいやり方」でミシェル・アリヨ=マリーをもてなし続けていた間、彼女は身のまわりの安全を守ることしか考えていなかった。
 
というのも、昨年の夏、彼女はハマメットにあるフェニシア・ホテルの大統領専用スイートルームで数日を過ごした。12月の終わり、人々による異議申し立てが形をなしていたころ、彼女は北西部タバルカの別荘で新年を祝っていた。おそらく彼女は、チュニジアの「現実」を十分に高く評価している、同胞のドミニック・ボーディス議員と会っていただろう。
 
ベン=アリーのもとでのフランスのおいしい金儲け
 
当然、ベン=アリー体制下に不可欠な労働法は、現地の数千あまりのフランス企業の都合の良いようにできているようだ。
 
2億8千万ユーロという記録を持つ、最高の外国人投資家であるフランスは、繊維部門やエレクトロニクス部門(ヴァレオ、フォーレシア、サジェム、EADSなど)、コール・センター業務(テレパフォーマンス)において、チュニジアで特に目覚しく活動している。
 
その他の例を挙げよう。ベン=アリー大統領は、ベン・アルス県にある約3,500人を雇用するサジェム社でいつも大変もてなされていた。2009年、フランス人グループの工場・物流監督のエリック・フォーブリは、モハメッド・ガンヌーシ首相から、品質向上に対する政府最優秀賞を受け取った。国が資格のある若者たちの失業に苦しんでいるにもかかわらず、生み出された雇用がほんの僅かであっても大したことではないのだ。
 
フランス=チュニジア商工会議所は、2国間のビジネスを支える柱である。フランス=チュニジア友好協会会長のクリスチャン・ドゥ・ボワシューは、首相府の顧問である。イスラム文化研究所の新しい代表であるアキム・エル=カルイは、アラブ企業経営者協会の一員であると同時に、ジャン=ピエール・ラファランとチュニジア商工会議所会頭エディ・ジラーニの側近である。また、ジラーニの娘のひとり、ゾラはベラセン・トラベルシの妻である。
 
またとりわけ、高級ホテル業の全てを仕切っているオスニ・ジェマリなどは、ドゥブレ一家やギヨーム・サルコジと親密な関係を維持している。「第2のチュニジア大使」の異名をとるジェマリは、エルヴェ・ノヴェリ観光担当相から、2008年にレジオンドヌール勲章のシュヴァリエを授与された。
 
ジェマリは「フランス領チュニジア」の中心人物と見なされている。元ジャーナリストである彼は、ラガルデール・グループで編集長を務めるクリスチャン・ドゥ・ヴィルヌーヴ、『ヌーヴェル・オプセルバトゥール』誌のジャン・ダニエル、元TF1社長で『フィガロ』紙の現編集長であるエティエンヌ・ムジョットらと密接につながっている。
 
時代遅れの外交
 
繰り返しになるが、フランスの外交政策は人権の軽視という点で際立っている。しかし、その無能力ぶりはチュニジア人たちにも及んでいる。というのも、社会的異議申し立ての広がりを評価することのできないパリは、最もシニカルな現実政策の中でも、何ら新しい展開を示さなかったのである。
 
近い将来、民主的なチュニジアは誰と特権的パートナーシップを結ぼうとするだろうか? ベン=アリー的な抑圧体制とつながろうとする国だろうか? それとも、民主的開放を喜ぶ国だろうか?
 
ベン=アリーの失墜から2週間後、ニコラ・サルコジはチュニジアフランス大使のピエール・メナを解任し、それまでバグダッドにいた、サルコジ主義のスター外交官と見なされ、ビジネス外交を展開するボリス・ボワロンを後任においた。
 
この間、大統領府は見通しのない状況の中で常に説明を探し求めている。『カナール・アンシェネ』紙によれば、アラン・ジュペとミシェル・アリヨ=マリーの反応は、フランスの外交官たちに対して辛辣である。「我々は絶えず深い霧の中にいた」と彼らは述べている。それは、ベン=アリーの宮殿にあるハマムの霧のことではないだろうか? 何故なら、ベン=アリーの衰退については数多くの分析家(※1)たちが述べており、現地では、2年以上前から人々の間で変化が著しかったのだ。それはとりわけ、人権活動家やジャーナリスト、独立した弁護士たちの強固なネットワークの中にあった。
 
数週間前、ウィキリークスがチュニジアの米国大使館の外交電報を暴露した。それは、2007年8月14日付のもので、2005年から2009年までのフランス大使セルジュ・デガレが、「チュニジアは独裁ではなく、指導者たちは人々に常に耳を傾けている」と述べていた。
 
その翌年、ガフサにある鉱床での社会運動が、ベン=アリー体制による血まみれの鎮圧という結果で終わった。当時、チュニジアを訪問したニコラ・サルコジは、自由権が保障された空間の発展を讃えたために、人々の憤激を買った。
 
(ジャン=セバスチャン・モラ)
 
※1 2007年以降その存在感が薄くなった外務省の報告書や、アメリカの外交官、また政治学者ベアトリス・イブーらフランスの研究者たちによって述べられている。イブーの著作に『チュニジアにおける抑圧の経済学』(La découverte, 2006)、また論文に「カメル・リビディ:チュニジアの地獄への長い下り坂」(ル・モンド・ディプロマティーク、2006)がある。

フランサフリック理解度チェック こたえ

50 ans Françafrique Cétro(2010年5月31日)

1-C, 2-B, 3-C, 4-A, 5-C, 6-B, 7-A, 8-A, 9-B, 10-C
 
0~3問正解
アフリカにおけるフランスの役割について、あなたは滑稽なあるいは天使のような見通しをお持ちのようです。これらの質問と自身の成績にがっかりしていますか? 問題ありません! 参考資料を手に入れるのはとても簡単です。例えば、www.afrique2010.fr や、「スュルヴィ」で得ることが可能です。
 
4~7問正解
悪くはないですが、あなたの知識は今後さらに深まるに違いありません。掘り下げるのに快いテーマではありませんが、事態を動かすためには極めて重要なものです。例えば、映画やパンフレットといったものに、こうした情報にたどり着くための教育的な方法があります。
 
8~10問正解
おめでとう! あなたはフランス=アフリカ関係の歴史と現在を良くご存知です。フランサフリックはあなたにとって隠されたものではありません。私たちの活動を発展させるためにスュルヴィに入りませんか?

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